らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ブラックマンデーから29年

2016-10-19 | 時事

ブラックマンデーを覚えていますか?
ブラックマンデーとは、1987(昭和62)年10月19日月曜日にニューヨーク株式相場が大暴落した日のことで、世界同時株安となったことからそのように呼ばれています。
ニューヨーク市場では、ダウ30種平均の終値が先週末より508ドルも下がり、この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった1929年の「暗黒の木曜日」を上回りました。
この影響は翌日の東京市場にも波及し、10月20日(火)に、日経平均株価は前日比で3,837円安(-14.9% )となり歴史的な大暴落となりました。

「要因」
では、ブラックマンデーはどうして起こったのでしょうか?
実は、ブラックマンデーは、明確な理由がないまま起き、未だに原因が解明されていないようです。
2008年のリーマン・ショックの暴落は、政府に救済されると予想されていたリーマン・ブラザーズが、救済されない事に決まったために起こりました。
今年起こったBrexitショック(英国のEU離脱)の暴落は、EUに残留されると予想されていた英国がEU離脱を決めたために起こりました。
このように、一般的に株価大暴落には理由がある事が多いですが、ブラックマンデーの暴落は明確な理由が無く、売りが売りを呼ぶ事で暴落した突然の出来事で、その構造は、パニックになった投資家が売り注文を出して株価が暴落したため、他の投資家がパニックになり投げ売りの注文を出すものです。

「時代背景」
当時の時代背景としては、1985年にプラザ合意が結ばれ、ドル高の抑制(ドル安への介入)が行われた結果、ドル安に歯止めがかからなくなりました。
これを受け、1987年にドル高に誘導するためのルーブル合意が結ばれましたが、9月に西ドイツはアメリカの反対を振り切って、ドイツマルクが上昇しているにもかかわらず金利を引き上げました。
そのため政策協調の信頼性は損なわれ、ドル防衛のためにFRBは大幅に金利を引き上げるのではないかと言われていました。
金利を引き上げれば通貨高となりますが、景気を冷やします。
この不安が市場に台頭し、相場は不安定な状況になっていたようで、きっかけがあれば売りを仕掛ける素地は十分あったわけです。

「ブラックマンデー後の日本の株価」
ブラックマンデーの後、日経平均株価は再び上昇基調となり、1988年6月17日には、ブラックマンデーの終値比で29.6%も高い28,395円を付けています。
その後も日本株は好調を維持しました。
日本ではルーブル合意後、米国のドル安への配慮から利上げが遅れていました。そのため株価や不動産価格が暴騰し、1989年12月29日には日経平均株価は史上最高値である38,957.44円をつけるに到りました。

現在はどうでしょうか。
昨日の日経平均株価は16,963.61円で、2008年9月15日に起きたリーマンショック後の最安値6,994.9円(2008年10月28日)からは9698.71円戻していますが、ブラックマンデー後の最高値には到底及びません。
27年前とは経済環境が変わっているとは言え、せめて日経平均2万円台はキープして欲しいものです。

安倍政権になってデフレ脱却の糸口が見えてきたことや雇用環境、株価が戻ってきていることは評価できるものの、矢張り、力強い景気回復のためには企業の設備投資の増加、現役世代の給与上昇、個人消費の回復、そして株価上昇が必須です。
現政権には、全国津々浦々まで景気回復が図られるよう、その為の政策を躊躇することなく果敢に実行して欲しいものです。


三種の神器

2016-10-18 | 雑学

1950年代後半に、戦後日本において新時代の生活必需品として宣伝された3種類の耐久消費財が三種の神器として持て囃され、電化製品では、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が一躍脚光を浴びることになりました。
その後、1960年代半ばのイザナギ景気時代には、カラーテレビ・クーラー・自動車 の所謂3Cが新・三種の神器として喧伝され、近年では2003年(平成15年)頃から2010年(平成22年)頃にかけて急速に普及したデジタル家電のデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビがデジタル三種の神器と呼ばれたのは記憶に新しいところです。

これらの三種の神器は、歴代天皇に伝わる三種の神器になぞらえた呼称で、新しい生活・消費習慣を表すマスコミ主導のキャッチコピーであり、豊かさや憧れの象徴でもあったのです。
今日のタイトルの三種の神器はこれらの商品のことではなく、天皇家に伝わる三種の神器について、その由来などを調べたので概略をご紹介します。

三種の神器とは皇位の象徴とされる「玉」、「鏡」、「剣」のことで、これらは「ヤサカニノ勾玉(八尺瓊勾玉:まがたま)」、「ヤタノ鏡(八咫鏡)」、『クサナギノ剣(草薙剣:つるぎ)」と言われています。

「三種の神器の由来」
「ヤサカニノ勾玉」と「ヤタノ鏡」
天照大神は弟神である須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴な行動に我慢できなくなり、怒り悲しんで「天岩屋戸(あまのいわやと)」に引きこもってしまいます。すると全ての世界が真っ暗闇になり様々な災いが起こりました。
神々は何とか天照大神に天岩屋戸から出て来て頂こうと相談し、色々な手立てを考えました。
この時に天照大神に天岩屋戸から出てきてもらう方法の一つとして作られたのが「玉」と「鏡」であったと言います。
後にこの「玉」と「鏡」が「ヤサカニノ勾玉(八尺瓊勾玉)」と「ヤタノ鏡(八咫鏡)」と呼ばれました。

「草薙の太刀/剣(クサナギノツルギ)」
天岩屋戸の事件で須佐之男命は地上に追放されます。そこで須佐之男命は嘆き悲しんでいる老夫婦と一人の娘に出会います。
老夫婦が言うには、
「毎年、八つの頭を持つ大蛇がやってきて、娘がさらわれていくのです。既に7人の娘がさらわれ、今年はこの末娘を捧げなければならなくなったのです」と、悲しんでいたのでした。

須佐之男命はこの親子を助けるために大蛇を退治することを決心します。
そして、見事に大蛇を討ち果たした須佐之男命は、この時、大蛇の尾からあるものが出てきたことに気付きます。
それが後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれる「剣」だったのです。

この後、須佐之男命はこの草薙剣を天照大神に献上することになりますが、この「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」と「八咫鏡(ヤタノカガミ)」そして、「草薙剣(クサナギノツルギ)」こそが三種の神器と呼ばれるものなのです。

「三種の神器が保管されている場所」
ではこれらの三種の神器は何処にあるのでしょうか?
天照大神はニニギノミコトに三種の神器を授け、地上を治めるように指示します。
初代天皇である神武天皇はニニギノミコトの孫と言われていることから、これ以来、三種の神器は皇室で受け継がれることになったということです。

しかし時の流れとともに、三種の神器の行方は変遷しているようです。
・「八咫鏡(ヤタノかがみ)」は、崇神天皇(すじんてんのう)の時に、複製品が作られ、実物は伊勢神宮に祀られて、複製品が宮中に保管されたと言われています。
・「草薙剣」は景行天皇の時代に東国の制圧に向かう日本武尊(やまとたけるのみこと)に与えられましたが、病気で亡くなった後、この剣を祀るために「熱田神宮」が建てられ、そこに御神体として祀られているそうです。
・「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は宮中にあって、代々、引き継がれてきたと言われています。

以上のように三種の神器の保管場所は3種とも別々に保管されているようです。
・八咫鏡・・・・・・伊勢神宮(複製品は皇居)
・草薙剣・・・・・・熱田神宮(複製品は皇居)
・八尺瓊勾玉・・皇居
但し、三種の神器は天皇でさえも見ることを許されていないと言うことであり、三種ともに真偽は分からないと言うのが本当のところのようです。


王将

2016-10-17 | ナツメロ

北條秀司の戯曲『王将』第三幕で、阪田三吉は亡き妻の名前を呼んで大声をあげて嘆き泣きます。
「小春・・・わいはまた負けた。もうあかん」
「迎え、迎えに来てくれッ」

京都市の名刹・天竜寺の境内で、将棋の関西名人の阪田三吉が関東の雄、花田長太郎と相まみえたのは約80年前の1937年(昭和12年)の春のことで、世に“天竜寺の決戦”として名高い勝負の一齣(ひとこま)です。
反逆の気風で知られた伝説の棋士・阪田三吉にとって、天竜寺は生涯で最後の舞台となったのだそうです。

その阪田三吉を歌った歌に「王将」があります。
この歌は昭和36年(1961年)11月にリリースされた村田英雄によるシングル曲で、村田英雄最大のヒット曲であり、当時売り上げが150万枚を超える爆発的な人気となりました。
今日はメガヒット曲「王将」をお聴きいただきたいと思います。

村田英雄



加糖飲料課税

2016-10-16 | 時事

先日の新聞報道によれば、世界保健機関(WHO)は糖類を多く含む飲料に課税するよう加盟国・地域に声明で呼びかけました。
その理由は、加糖飲料の消費を抑制し、肥満や糖尿病、虫歯などを減らす狙いからです。

声明では、WHOの専門家チームが昨年5月にまとめた報告書を基に「課税で加糖飲料の価格を20%引き上げれば消費を20%減らす効果がある」と主張しています。
そして、生活習慣病などを防ぐには、飲料などに添加される糖類の摂取量を1日当たりのカロリーの10%未満に減らすことが望ましく、5%未満に減らせば、健康によい効果が得られるとしています。
5%の場合は平均的な成人で25グラム(ティースプーン6杯分)程度ですが、一般的な炭酸飲料には250ミリリットルで40グラムの糖類が含まれているようです。
WHOによると、既にメキシコが加糖飲料への課税を導入しており、イギリス、フィリピン、南アフリカでも検討の動きがあるということです。

一方、日本では厚生労働省が「省内で論点整理などを行っている段階で、まだ対応は決まっていない」ということです。
厚労省の有識者懇談会は昨年6月、将来の保健医療のあるべき姿をまとめた提言書「保健医療2035」で、「病気を引き起こしやすい砂糖への課税強化を検討するべきだ」と指摘していますが、砂糖関連業界や飲料メーカーが強く反発する可能性もありそうだと言うことです。

超高齢化社会に突入している我が国の医療費は年々増加しています。
加糖飲料への20%課税によって肥満や糖尿病、虫歯などへの罹患者数が減少し、結果として医療費が削減できるのであれば、業界の反発はあっても私は賛成したいですが、皆さんは如何でしょうか。


牧水の酒の歌

2016-10-15 | 季節

残暑が厳しかった関西地方もすっかり秋となり、一昨日は十五夜に次いで美しいと言われる十三夜でした。
昔から十五夜、十三夜、十日夜(とおかんや)の3日間が晴れてお月見ができると縁起が良いとされています。
関西地方の今年は9月の十五夜、一昨日の十三夜は共に曇り空でお月見ができませんでした。
11月9日の十日夜(とおかんや)は果たして晴れてくれるのでしょうか。
せめて一日だけでも晴れてもらって、少しでも縁起がよくなるよう願いたいものです。

さて、秋の夜に飲む酒は美味しいようですね。
無類の酒好きと言われている若山牧水は秋の夜に飲む酒を次のように詠んでいます。

  『白玉の 歯にしみほとる 秋の夜の 酒はしづかに 飲むべかりけり』

この歌は明治43年、牧水が信州小諸滞在中の作で、牧水の酒の歌の中でも最も広く愛誦(あいしょう)されているものです。
この歌には、結句が『飲むべかりけり』となっているものと『飲むべかりけれ』となっているものとの二つがあってよく問題になることがあるようです。
明治43年秋に初めて雑誌に発表された時は『飲むべかりけれ』であったそうですが、大正5年に出た自選歌集『若山牧水集』では『飲むべかりけり』と改められ、それ以後牧水の書いた文章の中でも、短冊・色紙・半折・等でも常に『けり』になっているそうです。
従って、原作は『けれ』で、後に『けり』と改められたことから、『けり』とすべきだろうと言うことです。

お酒の好きな読者の皆さん、今夜は全国的に晴れて夜空の星が美しく輝くようです。
秋の夜空を眺めながら、一人静かに飲むもよし、夫婦差し向かいで飲むも又よし、秋の一夜をお酒と共にお過ごしされては如何でしょうか。

 


日本の国石 ヒスイ(翡翠)

2016-10-14 | 時事

水辺に生息するカワセミは羽根が青緑色(翠)、腹が橙色(翡)の美しい鳥で、翡翠(ひすい)とも呼ばれています。
このカワセミの羽根に色が似ていることから名付けられた宝石がヒスイ(翡翠)です。
今日はヒスイについて調べました。

ヒスイ(翡翠)は、日本鉱物科学会が2016年9月24日に金沢市で行われた総会で「日本の石(国石)」に選定しました。
国石の候補として花崗岩、輝安鉱、自然金、水晶、ヒスイの5種類の中から公式ホームページ上で投票を呼び掛けていました。
その結果、ヒスイと水晶の上位2種による決選投票の結果、71票を集めたヒスイに決まりました。水晶は52票だったそうです。

ヒスイの産地は新潟県の糸魚川地域がよく知られていますが、ここは世界有数の上質のヒスイ産地だそうで、地域の遺跡からは約7000年前のヒスイ製ハンマーが発掘されているそうです。
勾玉(まがたま)などの宝飾品も全国各地で発見されており、縄文時代に世界最古のヒスイ文化が栄えたことが分かっているということです。

・「青い宝石」や「ヒスイ」などの別名を持つ美しい鳥“カワセミ”です。(2014年3月12日撮影)


翡翠(ヒスイ)は古来より、不老長寿など、霊力・生命の象徴として珍重されてきました。
全国の遺跡から翡翠を加工した宝石(勾玉など)が見つかっていることからも、日本の宝石の原点といわれています。
勾玉はそれ自体が魔を退け、さらに幸福をもたらすとして多くの宝石が加工されていますが、その効果が最大とされているのが翡翠を加工したものである、といわれています。
特に、糸魚川地域は、翡翠(ヒスイ)加工において世界最古の歴史を持つとされ、この地域の特殊な技術で磨かれた翡翠の勾玉は不思議な力を持っていると考えられてきました。
『豊穣、生命、再生』をもたらすものと信じられ、また神聖な石であると同時に、「幸運の石」として大切にされてきたのです。
皇室の三種の神器の1つの八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、糸魚川産の翡翠製大珠とされています。


血糖値スパイク

2016-10-13 | 情報

「血糖値スパイク」をご存知でしょうか?
先日、NHKが放送していたのでご紹介します。

「血糖値スパイク(食後高血糖)」は、糖尿病の進行、失明や足の切断の危険性、心筋梗塞からガンまで、日本人の死因の上位を占める様々な病の元凶なのだそうです。
正常であれば食後の血糖値は緩やかに変化しますが、血糖値スパイクが起きると、まるでとがった針のような急上昇を繰り返します。
放送では、外国の専門家としてアントニオ チェリエロ教授が登場し、「医学は血糖値スパイクの悪影響を長い間ないがしろにしてきた。知らず知らずのうちにあなたの身体を蝕んでいるのです」と報じていました。

調査によれば、「血糖値スパイク」が起きている人は全国で推定1400万人以上だそうで、健康診断で正常な人たちも次々と見つかっているそうです。
高血糖には無縁と思われる、スリムで若い女性も「血糖値スパイク」を指摘されて、本人は大変驚いていましたが、しかし、ご安心してください。
簡単な方法で撃退する方法が明らかになってきたそうです。

そこで放送で紹介していた「血糖値スパイクの解消法」や「血糖値スパイクの危険度チェック」へリンクしておきますので、参考にして頂ければと思います。

「血糖値スパイク」の解消法」
・対策1・・・食事の順番を守る(野菜⇒肉・魚⇒ご飯・パン)
・対策2・・・朝ご飯をちゃんと食べる。ご飯抜きは厳禁
・対策3・・・食後すぐの「ちょこちょこ動き」が効果的

「血糖値スパイクの危険度チェック」
8つの質問に答えるだけで、あなたの「血糖値スパイク」の危険度が判定できます!

これまで見逃されてきた万病の元である「血糖値スパイク」。
今すぐこれを叩いて、皆さんの健康寿命を伸ばそうではありませんか。


真田丸の史跡を訪ねる(7)玉造稲荷神社

2016-10-12 | 地元紹介

7回連続でアップした今回の「真田丸の史跡を訪ねる』シリーズは、今日の玉造稲荷神社で最終となります。

「玉造稲荷神社」
この玉造稲荷神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創建され、当時は比売社と称していました。
当神社には、587年(用明天皇2年)に蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承があるようです。

当神社の歴史は戦火による焼失と再建の繰り返しだそうです。
1576年(天正4年)の兵乱により本・末社、記録等を焼失するも、1603年(慶長8年)には豊臣秀頼の寄進により社殿、高殿(舞台)が再建されましたが、1615年(元和元年)の大阪夏の陣で再び焼失、1619年(元和5年)に時の大坂城代・内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進で再建を果たしました。
1863年(文久3年)11月には大坂大火(新町焼)で又も焼失し、1871年(明治4年)に造営されています。
その後、1945年(昭和20年)6月の大阪大空襲により再度灰燼に帰しましたが、1954年(昭和29年)には現社殿が建立されたと言うことです。




「玉造稲荷神社拝殿」
主神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)で、この神は素盞嗚尊と神大市比売(かむおおいちひめ)との間の子で衣食住を司る神だそうです。
稲の精霊であり、穀物の神として古くから崇敬され、一般に稲荷大神として信仰されています。
江戸時代の『摂津名所図会』では、社名を「豊津稲荷神社」の名で著されており、豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の守護神」として信仰を集めていたと言われています。


「豊臣秀頼公の銅像」
玉造稲荷神社は、戦国時代には豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けていたとされ、度重なる戦火によって荒廃した後も、その度に 豊臣家、徳川幕府の大坂城代、氏子らの寄進によって再建されました。
1576年(天正4年)の兵乱により本・末社、記録等を焼失しましたが、1603年(慶長8年)には豊臣秀頼の寄進により社殿、高殿(舞台)が再建されました。

・この豊臣秀頼公の銅像は土台3m、銅像3mで、神社と大坂城を見下ろしていると言うことです。


「秀頼公奉納鳥居」
慶長8年(1603年)3月に秀頼公が神社再興時に奉納された鳥居です。
元は本殿正面に設置されていようですが、阪神大震災により一部損傷を受け、上部、脚部に分け現在の場所で保存しているものです。
神社では、「柱の部分が破損しているものの400年の歴史を刻む当社の歴史的遺産である」としています。



「胞衣塚大明神」
豊臣秀頼の胞衣(えな、大坂ではよな)を祀る社であり、当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていたとされています。
胞衣(よな)とは胎盤のことです。
1983年(昭和58年)大坂築城400年を記念して、ゆかりの当神社に祀られたそうで、子の悩み、夜泣きに霊験あらたかとされています。



「利休井」
往時この神社の南西部には千利休の屋敷が建っていて、屋敷内には良質の井戸があり、利休がその水で茶を点てていたと伝わっています。
江戸期にはその水で酒蔵も営まれていたそうです。
この井戸は平成18年8月、NPO法人「大阪城甲冑隊」によって再掘されました。




真田丸の史跡を訪ねる(6)心眼寺

2016-10-11 | 地元紹介

「真田丸の史跡を訪ねる」シリーズの6回目は心眼寺をご紹介します。

「心眼寺」
心眼寺は1622年4月、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り、堂宇を建立したのが始まりで、創建から寺の定紋は六文銭、、山号は真田山です。
当時の大阪は徳川幕府の直轄地でもあり、豊臣家の武将である真田幸村親子の墓を作ることは許されなかったそうです。
それが400年目となる2014年10月にようやく真田左衛門佐 豊臣信繁之墓として建立することができました。

・心眼寺の山門です。十数名の真田丸を巡るグループが見学しているところでした。


心眼寺は真田幸村とその子・大助の供養のために真田家の祖先である滋野氏が江戸時代に建てた寺です。
心眼寺周辺は大坂冬の陣で真田幸村が築いた大坂城の出丸・真田丸跡地といわれ、三光神社が真田丸の東側に位置し、心眼寺は西側にあたるそうです。

・山門に向かって右側には「真田幸村出丸城跡」の碑が建っています。


「京都見廻組」
山門左側には、京都見廻組 渡辺吉太郎と桂早之助の墓所の石碑もあります。

坂本竜馬の死後、慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府による武家政権が終わり、新政府が樹立されました。
それに不満をもった旧幕府軍と新政府軍(討幕派)が武力衝突し、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まりました。
その戦いに京都見廻組も参戦し、最前線で戦いました。
龍馬暗殺の実行犯といわれる隊士のうち、桂早之助と渡辺吉太郎はこの戦いで戦死しました。
戦死した桂早之助と渡辺吉太郎は、現在の大阪市天王寺区にある心眼寺まで運ばれ葬られたのだそうです。




本堂の手前の左側に、桂早之助と渡辺吉太郎のお墓がありました。


「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」
歴史学者・平山優氏の「大いなる謎 真田一族」によれば、文禄3年(1594年)11月2日、真田信繁(幸村)は従五位下・左衛門佐に任じられました。
このときの口宣案(くぜんあん:口頭で伝えた控え書き)に「豊臣信繁 叙従五位下左衛門佐」と記されていることから、豊臣姓を許されたのではないかと言われています。



心眼寺本堂です。


「真田丸顕彰碑」
「真田丸」は大阪明星学園の辺りにあったとされていることから、同学園テニスコート外側に2016年2月「真田丸顕彰碑」が設置されました。
天王寺区役所では、真田丸跡地を訪ねて全国からやって来る方々の観光の目玉になるであろうと期待しているようです。

・顕彰碑の場所は大阪市天王寺区餌差町5-44。心眼寺坂の興徳寺前にあります。


真田丸の史跡を訪ねる(5)善福寺どんどろ大師

2016-10-10 | 地元紹介

真田丸があったとされる北の空堀だった場所に善福寺があります。
善福寺(ぜんぷくじ)は、大阪市天王寺区空堀町にある高野山真言宗の寺院で、山号は如意山、院号は甘露院、「どんどろ大師」の名で知られているお寺です。

善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂(きょうにょあんだいしどう)」と称し、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院、法資法道が元和元年(1615年)の大坂夏の陣で亡くなった戦死者の霊を弔うために創建したと言われています。
この付近は大坂冬の陣(慶長19年・1614年)では真田幸村が真田丸を築いたところであり、大坂冬・夏の陣の激戦地でした。



善福寺の宗教法人としての登録名は「どんどろ大師 善福寺」で、通称はどんどろ大師です。
「どんどろ」とは、天保年間の大坂城代で弘法大師を信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」 がなまって「どんどろ」となったということです。
なお、土井利位は、幕府の老中となり、水野忠邦の天保の改革に協力した人物だそうです。

・善福寺の本堂内部です。


「どんどろ大師」
浄瑠璃 『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』の『どんどろ大師門前の場』では、まさに此処、どんどろ大師が舞台として登場しているのです。
“とと様の名は 阿波の十郎兵衛、 して、かか様の名は  アイ お弓と申します”
この台詞はお聞きになったことがありますよね。

この浄瑠璃は、『弘法大師のご縁日にお弓が参詣のみぎり、父母を尋ね、故郷の阿波の国(徳島)を離れた巡礼姿の幼い娘おつると、仏縁に導かれたように門前で巡り合います。
娘は父母を慕い、母はわが子を思う』 親子の慈愛を主題にした演目です。
この物語の『どんどろ大師』の門前がこちらのお寺の前と言うことで、お弓、おつるの像が置かれています。