以前も一度、書いたのですが、
平安末期、北海道では刷毛でこすったような文様のついた
「サツモン」土器の生活様式をもった文化が栄えていました。
このひとびとの活動範囲は広く、北上川河口付近でも
この土器が発見されていることから、
東北北部、あるいは政庁である多賀城都市などとも交流を持っていたと
推定されています。
しかし、一般的に考えれば、北上川河口ということから、
平泉藤原氏との交易のために
北海道に生活文化をもっていた人々が、拠点として
造営していた痕跡だと思われます。
北海道と、平泉との交易とは、陸を行くよりも
普通に考えれば海の道、水の道を使うと考える方が自然。
そうすると、相当長距離の航海になります。
そういう困難を超えても魅力ある交易があったということでしょう。
ただし、それはあくまで北海道に暮らす人々にとっては
特殊な交易であったに違いなく、
通常的な、鉄器やらお酒といった交易品は
もっとも近い本土側の港としての、津軽半島西岸の十三湊を使っていたのは疑いない。
この福島城は、創建の年代が平安末期と言うことなので、
従来、鎌倉期の安東氏拠点と考えられていた通説が
覆されてしまっている。
そうすると、この城はだれが、なんのために造った城なのか、
というようなことになっているのだそうです。
しかし、それが平泉藤原氏の関係の氏族による築城と考えても
やはり、基本的な用途としては、
対北海道交易の利権を考えていた城であることはある程度、確定すると思う。
この築城年代より古い記録では
蝦夷地のひとびとが秋田城(王朝政権の出先機関)を攻めたという記録もあるので、
この福島城も、そうした対北方民族への備え、という要素をもっていただろう。
もちろん、交易も戦争も、両方考えていたのが実態。
実際にここに行ってみた実感では、
やはり津軽平野の産品を、海路に乗せて運ぶ基地という
要地に当たっているというのが、ありうべき存在理由ですね。
そして、それは北方世界全体と、より南方の「日本国家」との
中継的な国際交易の拠点でもあった、といえるでしょう。
そう考えれば、日本の玄関口として長く機能してきた
西の「太宰府」と、似たような機能を果たしていたと考えられます。
それを、日本の正史記録を書く勢力ではないひとびとが
そういう機能を押さえていた。
このあたりの、日本国家と現地勢力との間合いの取り方というのは
きちんと正史に書かれることのない部分。
やむなく想像力を働かせるしかない。
平安末期といえば、人物で言えば義経なども出てきますね。
「蝦夷渡り」の伝説も生まれる素地は、やはりあるようです。
本日は、久しぶりに歴史ネタブログということで・・・。
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