きのう書いたブログは、結構なみなさんが見てくれたようです。
まぁ、以前から考えていたことなんですが、
自分でもだんだん明確に思うようになってきたのですね。
居住って、その時代時代で、考え方は変わってくるものではある。
今日の「個人・自我」優先の社会が出来上がって
そういうなかでの暮らしと、たとえば江戸期のような社会では違いもある。
しかし、長期的な日本人の居住環境について、
哲学的に論議しなければ、日本の住宅政策など考えられないと思う。
それなのに、せっかく、福田元総理が言い出して
国の施策にもなった「200年住宅」という大切な概念について、
きのう、聞いていた話では、国交省自体、
「なるべく、というか今後は使わないようにしてください」とアナウンスしているという。
おいおい、であります。
確かに、かれら役人さんたちは政治家の言い出したことの整合性を
整えていかなければならないのだから、難しいのはわかるけれど、
キャッチフレーズ的に内外に公表したことについて、
官僚の独断で「やめてください」と「行政指導」していいのかどうか。
むしろ、福田さんはわたし、ものすごくすばらしい慧眼を持っていたと思っています。
今後、住宅への日本人の投資を半減させて
その分、どうしたら「豊かに暮らせるか」みんなで知恵を出し合うというのは
人口減少、経済成長マイナス時代を生き抜く鍵になると思うのです。
まずは安心して気兼ねなく暮らせる優良な長期的資産としての住宅があって、
そこにあまりお金を掛けなくても生きていける、
そういう前提があれば、日本人全体の考え方に「ゆとり」が生まれる。
写真は、江戸期の「長屋暮らし」の間取り図。
基本的には独身者や低所得者には約9畳ほどのスペース。
そのほかに井戸や、井戸端、共同便所などの生活協同装置スペースがあるので、
まぁ、個人的というか、身内的な空間として基本的に9畳だったのですね。
確かに狭いとは思うけれど、
都会生活というのは、銭湯や祭事や催事空間としての神社仏閣といった公共的な空間も多く、
憩う空間は案外たくさんあるのだから、そういう部分まで
不必要に住宅内部に取り込む社会的意味は少ない。
逆に家が狭いと、外に出かけることが増えるはずなので、
「都会的経済循環~賑わい」という意味では意味も大きい。
そう考えてみると、9尺×3間という空間は、まぁそこそこ調和している。
食べる、寝る、といった基本行為にはそれくらいの広さがあれば充分。
このあたりは、竪穴住居などでもそう大きくは違いがない。
実は、日本人というのは、こういう空間性にくるまれてきたのが基本ではないのか。
現代はあまりにも「肉体的利便性」に重きを置きすぎて
維持するのにも金のかかりすぎる住宅になっているのではないか。
極端ではあるけれど、
どうもこういう部分から、論議を開始しなければ
ほんとうの意味での「日本人の長期的優良住宅」なんて考えられないのではないか。
そのように思えてなりません。
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