最近、息子が大きくなってきて
男の子の教育というか、男子としての気概を育てる、
というようなことに向き合わざるを得なくなってくる。
そうなってきて、考えることは人間は結局、人間にしか影響されないだろう、
という、ごく当たり前のこと。
いい本を読め、とかよく言われますが、
それって、要するに良き人物と巡りあえ、ということだと思います。
尊敬できる生き方や考え方を持って生きている人間に
多感な時期の感受性には、接するようにさせてやりたい。
どのように生きることが、人生の目的であるのか、
というようなことに関わってくる。
そう考えてきてみると、
現状の社会の中で、具体的な人物像が見あたらない。
信じうる価値観を体現して、いま生きてきている、
そういった骨太な大人というのは、探してみて、なかなか見あたらないのが現実。
まぁそれは、知名度とかの社会的尺度でだけ見渡した結果なのかも知れないけれど。
この喪失感の理由って、やはり社会の側に問題がある。
なにを尊いとするのか、その社会的目的が見えなくなっていることが起因ではないか。
わかりやすく言えば、今の社会はアメリカ的プラグマティズム
効率性を徹底追求するという資本の論理が支配している。
それはものづくりの論理と言うよりも
金融の論理であって、いわば目的が喪失して、手段だけが異常拡大しているに等しい。
しかし、人間は現代でも、人間として生きている。
今後、金融資本的な論理に哲学を見いだして
それを理念にまで高めて金融の自己増殖的拡大、金儲けに
倫理的側面を持たせていくような考え方が出てくるものだろうか?
どうもそれは根本的矛盾を背負っているとしか思えない。
そうだとすると、やはり子どもたちに理念としての未来概念を
明確に示し得ないのではないか、やはり。
で、そういう絶望感の中で、目標・目的が見いだせないから、
ひたすら「スペシャリスト」という「手段」的専門性の高度化に社会全体が向かう。
そしてそれが破綻しても、復興していく目的感が発露してこない。
いまの日本の状況って、こういった流れになっているのではないか。
きのう、多くのみなさんと
講演会を通していろいろ考えてみた次第ですが、
核心的には、こういった問題意識に、気分が集中して行かざるを得ませんでした。