三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

ニッポンの冬日

2013年02月25日 05時24分56秒 | Weblog



最近、北海道から本州地域へと活動領域が拡大して
感受性の部分でも、いろいろに邂逅を感じるようなことが多い。
写真は宮城県の登米で取材した住宅の室内風景。
古民家を探訪して歩く無意識の目的のなかに
「日本人的な感受性」の再構築・再確認があると思い至ります。
北海道美瑛で創作活動されている日本画家・後藤純男さんの作品には、
日本的感受性である「花鳥風月」というものが、
日本人が明治以降開拓した北海道という北の大地でどのように変遷するのか、
というようなテーマが迫ってきます。
そういう日本が出会った北の寒冷気候の厳しさという考え方・見方というのが
現代日本ではまだまだ多数派的な受け止め方だと思うのですが、
わたしのような北海道に生まれた日本人であって、
すでに日本的な「夏を旨とした」家づくりを一度否定した後の
住宅環境を基本とした見方を持っている、そういう種類の人間からすると、
今度はその先に、もう一度「温故知新」的に「日本的なるもの」を
再発見したいと思っている自分があります。
たぶん北海道から本州以南地域日本への、民族的な「恩返し」に似た思い。
あまりそれとして強く自覚しているわけではありませんが、
どうも、自分自身をふり返ってみて、そんな軌跡が想起されます。
もちろん、そうではなく、
高断熱高気密の家づくりの先の「生活文化性」でも、
むしろ「インターナショナル」な方向に向かう、というのもアリとも思うし、
現実に進んでいる流れではないかとも思うのですが・・・。
でもやはり、日本人であると言うことを再発見する方が、自然なのではないかと
そんなふうにも考えている次第です。

で、なにげなく写真のような光景に出会う。
建築年代は江戸中期にさかのぼるような武家住宅内部の「座敷」から、
広縁を介した先の庭園の冬日を,障子越しに明暗シルエットでみる、
というような民族的な「経験記憶」が想起される。
ここが宮城県であり、季節は2月の中旬であるという外的条件から考えると
きわめて過酷な室内での「寒冷」感を覚悟した上で、
それでもなお、こうした空間の美しさもあるのだと思わされます。
障子という文化は、日本人のこころに染みわたるように、ある感受性を
残してきた文化なのだろうと思います。
それは、ガラス越しの明瞭な外部把握とはひと味違った対自然認識観を
日本人のこころにもたらせたに相違ないと思うのです。
それはちょうど墨絵の表現力にも似た、ある特異な感受力かもしれない。
寒いけれど、その直射の下に居れば、陽光が貯まり来るような冬の日の下
寒錆びたような庭木が、ある「侘びサビ」を伝えてくる。
室内で、じっと採暖のための火鉢を抱え込んだり、
炬燵にくるまったりしながら、春を待ちわびている太平洋側ニッポンの冬。
こんな室内風景に、歴史的な暮らしのありようが見えてくる気がする。
こういう光景の中で、日本人の感受性はどう反応したのだろうか、
そういう想像力も掻き立てられる。

ひるがえって、こういう空間美は
北海道の住宅では、どのように民族的連続性を持てるのか、
とも考えてしまったりする(笑)。
一方でたぶんそんな感受性の伝承はありえないと、醒めきって思ってもいる。
2013年の冬2月、あちらこちらと巡り歩きつつ、
そんななかで感じていることのひとつであります。
コメント
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