三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

学問と学問の間

2011年11月20日 08時30分40秒 | Weblog





わたしは歴史が大好きなんですが、
北海道って、残念ながら文献に残っている文字記録がたいへん少ない。
この地に生まれ育っているけれど、
そういう人文的積層を感じられないのが残念なのですね。
なので、文字記録ではない、考古的研究の方に
その記録などに、興味が行くようになってきています。
そんな研究者の中でも、旭川博物館の瀬川拓朗さんの著作などには
大いに刺激を受けている次第です。
で、最近はこうした考古学と歴史学との「学際的研究」が進んでいるようです。
考古学というのは基本的には発掘されたモノを
いわば実証的証拠として、そこから推論を立ち上げていくような研究。
一方の文献記録研究に近い歴史のアプローチがあって、
それらを重ね合わせることで、新たな知の発掘を目指しているようなのです。
こういった試行は、すばらしいなと日頃感じている次第。

そういうなかでは、建築ってどうなのか。
先日、筑波大学の安藤邦廣先生にお会いして
戦国末期の京都の状況などを重ね合わせた木造建築の歴史研究のお話を伺って
目の覚めるような思いをしたのですが、
それは、スペシャリストとして、閉じられた領域の中だけで
物事の本質を見ようとはせず、時代背景を含めて総合的に判断しようという
そういった「学際」的な姿勢を、初めて建築研究者から聞いたからです。
でも多くの建築研究者のみなさんは、相変わらず、
それぞれの専門的分野に閉じこもって、
その範囲内だけで、スペシャリストとしてふるまいたいと念願している。
そうした姿勢は、きのうまでの積み重ねのなかで思考していこうという考えを感じます。
まぁ、それでよかったのがこれまでなのでしょうね。
その道の専門家、プロは間違いなく安心できる、
というような世界観がその根底にあるのでしょう。
しかし、たった1000年に一度、起こる確率のことすら、
これまでのそれぞれの専門フィールドでの各自の研究からは予測できず、
未曾有の惨禍を経験したばかりなのですね、わたしたちの社会。
スペシャリストの、どうでもいいような繰り言ではなく、
事象と事象を重ね合わせて、実践的な「どうすべきか」という
社会の選択に意味のあるように、学問領域の相互撹拌をしなければ、
どうにも出口なしは解消できないのではないか。
とくに住宅や建築の方で、
国の施策も含めて、相当に硬直してきている。
それは、学者代表のスペシャリストという存在が、
あまりにも基本的「想像力」を失っていることが要因だと思う。
原子力委員会、原子力安全委員会の蹉跌に
わたしたちは、社会として学ばなければならないのではないか。
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空っぽアタマの休息に

2011年11月19日 11時57分31秒 | Weblog

きのう、ようやく東北復興のための住宅情報ボランティア企画
無料配布雑誌「東北の住まい再生_2号」が下版。
ことしは通常号に加えて、その他の企画がたくさん進行しているので
なかなか休日が取れませんでしたが、
本日と明日は、仕事はひとつの進行だけになったので、
久しぶりに、少しリラックスできるようです。
休みなく働いていると、効率が良さそうですが、
実は頭の回転が著しく低下していくように思います。
ぼ~~っとして過ごしていると、
そのときは、本当にアタマ空っぽで、
本性と向き合わされて、あきれるほどですが(笑)、
そこから通常の状況に復帰すると、けっこう全体状況がクリアに見えてくる。
2日間、なるべくぼ~~~っとしていたい。
え、いつもと変わらないだろうって?・・・むむむ。

ということで、
そういうときは、食べることに気分を集中するといい。
で、本日朝は、わたしが朝食をつくりました。
写真のような手の込んだ、ホテル洋食みたいなのを作りたいが、
まぁ、こんなのが出来るんだったら、レストラン開業します。
余り物整理で、シャケの頭の切り落としがあったので、三平汁であります。
そうすると、ごはんも普通の白米ではなく、おにぎりに。
三平汁、具だくさんだったので、まぁ、これでOK。
食べ終わると、こんどは昼食の心配。

っていうように、
単純に主夫的なことばかり考えていると、
気分の切り替え、リラックスには効果的ですね。
でもせっかくなので、少しは外食をしたいところではあります。
さてさて、食べ物のことを考えるのは、なんとも楽しい。
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スペシャリストだけで社会は発展するのか

2011年11月18日 09時53分34秒 | Weblog






最近、息子が大きくなってきて
男の子の教育というか、男子としての気概を育てる、
というようなことに向き合わざるを得なくなってくる。
そうなってきて、考えることは人間は結局、人間にしか影響されないだろう、
という、ごく当たり前のこと。
いい本を読め、とかよく言われますが、
それって、要するに良き人物と巡りあえ、ということだと思います。
尊敬できる生き方や考え方を持って生きている人間に
多感な時期の感受性には、接するようにさせてやりたい。
どのように生きることが、人生の目的であるのか、
というようなことに関わってくる。
そう考えてきてみると、
現状の社会の中で、具体的な人物像が見あたらない。
信じうる価値観を体現して、いま生きてきている、
そういった骨太な大人というのは、探してみて、なかなか見あたらないのが現実。
まぁそれは、知名度とかの社会的尺度でだけ見渡した結果なのかも知れないけれど。

この喪失感の理由って、やはり社会の側に問題がある。
なにを尊いとするのか、その社会的目的が見えなくなっていることが起因ではないか。
わかりやすく言えば、今の社会はアメリカ的プラグマティズム
効率性を徹底追求するという資本の論理が支配している。
それはものづくりの論理と言うよりも
金融の論理であって、いわば目的が喪失して、手段だけが異常拡大しているに等しい。
しかし、人間は現代でも、人間として生きている。
今後、金融資本的な論理に哲学を見いだして
それを理念にまで高めて金融の自己増殖的拡大、金儲けに
倫理的側面を持たせていくような考え方が出てくるものだろうか?
どうもそれは根本的矛盾を背負っているとしか思えない。
そうだとすると、やはり子どもたちに理念としての未来概念を
明確に示し得ないのではないか、やはり。
で、そういう絶望感の中で、目標・目的が見いだせないから、
ひたすら「スペシャリスト」という「手段」的専門性の高度化に社会全体が向かう。
そしてそれが破綻しても、復興していく目的感が発露してこない。
いまの日本の状況って、こういった流れになっているのではないか。
きのう、多くのみなさんと
講演会を通していろいろ考えてみた次第ですが、
核心的には、こういった問題意識に、気分が集中して行かざるを得ませんでした。
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初雪の朝

2011年11月17日 05時52分45秒 | Weblog





けさ5時、静かだなぁ、
という雰囲気で目覚める。
予感はあった。
就寝中に、さわがしいあられのような音が感じられたのです。
で、ブラインドを開けてみると、
やはり、初雪であります。
静かに、夜の底が白くなる。
というのが、北国人の初雪への一般的な印象といえるでしょうか。
とにかく、静かさがまず、やってきます。
雪が、遮音の効果を持っているのはその通りなんでしょう。
街を構成しているさまざまな音源に対して
まんべんなく上辺をカバーしてしまう。
したがって、さまざまな音源を動かそうとしても、他のものとの接触に
クッション効果を与え続ける。

で、くらしのモードが切り替わる。
きのうは友人のガソリンスタンド経営者から
朝一番で電話が来て、「タイヤ交換、空いてるから来いや」
っていう案内がありまして、率直に従いました。
タイミングはバッチリであります。
黒澤明さんの作品は自然現象とのコラボレーションが特徴ですが、
北国人は、そういった感受性を否応なく強く持つと思います。
本日はちょうど、札幌市立大学の羽深先生から言われていた
「札幌建築夜学校」で、お話しをさせられる日に当たっております。

「札幌らしさ」

って、住宅ではどんなことが考えられるのか、というテーマ。
そういう事ことへの興味を持っている人たちと、
探求のきっかけを作っていきましょう、ということなのです。
しかし、一応、スライドはいろいろに用意を致しましたが、
テーマがテーマだけに、絞り込みは容易ではない。
どういうことになるのか、出たとこ勝負の側面が大きい(笑)。
でも、それが面白さになっていくのではないか。
黒澤明さんばりに、こういう札幌らしい季節感のチェンジを
うまく利用したアレンジが出来るのかどうか、
はなはだ不安ではありますが、
楽しくお話しできたらいいなと思っております。

本日午後6時半から、札幌市立大学サテライトキャンパス
(札幌市中央区北4条西5丁目 アスティ45ビル12階)
で、入場無料で行われます。
興味のある方は、足をお運びいただければ幸いです。
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LED照明の可能性

2011年11月16日 06時31分44秒 | Weblog





写真は、先日の十勝住宅見学での様子。
モダンデザインで地域で人気の北栄建設さんの住宅です。
玄関を入ると、正面に衝立があって、
その裏手にキッチンがあります。
対面式になっているので、来客を迎えるような配置関係。
で、ポイントは手前側の白く浮き立っているようなライン。
キッチンの色は黒く塗られています。
この住宅は基本的にモノトーン、というか
白黒のハッキリとしたインテリア空間。
そういった演出を盛り上げるのに、
このライン状の装置は視覚に効果的。
空間機能としては、日常の身の回り品の棚のようなのですが、
まぁ、そういう「用」というよりは、デザイン性でしょうね。
面素材はメラミン加工を施してあって光沢感がある。
で、その上部にはLED照明が埋め込まれていて、
やや金属感のあるようなデザイン仕上がりになっています。
たいへん、シャープな印象をもたらせてくれます。

こういうインテリアの感覚って、
やはり年代的には、若い30代などの感覚と言うことになるでしょうか?
わたしなんかにもけっしてワルくはないけれど、
毎日過ごすインテリア空間としては、やや刺激的すぎるかなと
そういう気分を持つのは避けられない。
人間がやすらぎを感じるという部分も、変化していくものだと思うので
こういった感覚に親近感ややすらぎを感じるひともいるのだと
そう思いますね。
境界のハッキリとした、シャキッとした空間性ですね。

で、その照明装置としては
ここで使われているようなLEDって、
似合っているのかも知れません。
わたしのような昭和の年代には、電球色の暖かさがいやされるのですが、
ただ単に年代的なものなのか、少し複雑であるかも知れませんね。
そういえば、応急仮設住宅でも木造の木を表したような
インテリア空間ではなく、どちらかといえば、
素材感を消してしまって、陰影感だけにしたい、というような
こういった志向性を持ったひとも少数だけれど、
一定割合でいる、というように聞きました。
好み、というようなことなのでしょうか。
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石巻からの新米

2011年11月15日 06時11分28秒 | Weblog






仙台のスタッフから
新米を送ってもらいました。
玄米で送ってくれまして、毎日精米して
食べさせていただいております。

春まだ遠い3月の震災を経て、
ことしという年の時間の積み重ねを体現する味わいです。
精米器からぽろぽろと落ちてくる米粒。
それを受け止めて、精米したてのそれを毎朝炊いています。
石巻にはことし何度か行きましたが、
あの街で、あの地域でと思うと、
よくぞ、このお米がと、思います。
とくに、海沿いの工業地帯の被災工場を訪問させていただいたときには
その不屈のたたかいぶりに胸を打たれました。
人間の生き様を見せつけられた思いがしたものです。
年商を上回るような新たな借金を重ねても
それでも社員の雇用を守って、地域の底支えになっている。
住んでいる国民に対しては災害の「補償」はあるけれど、
企業経営には、たとえどんな天災であっても補償はない。
アパートに住んでいる人には、補償が出るけれど、
そのアパートを維持管理してきたオーナーには
それを再建する費用についての補償はない。
被災地での経営って、そういう厳しさがあります。
しかし、企業が存続して、生き延びていかなければ、
人々の暮らしの再生はありえない。
きのうまでやってきたことを、きちんと積み重ねていくこと。
それなくしては、前提が構成されないのだということ。
そういったことを、さまざまに教えてもらった気がします。
まぁ、いろいろな思いが交錯しながら、
お米、食べています。 うまい。



PS
本日、国会参議院予算委員会で民主党・中村哲治さんが質問されます。
で、どうもその質問に際して
わたしどもの無料配布誌「東北の住まい再生」が
出席議員に配られて、そういった関連質問が行われるそうです。
夕方に、NHKの全国放送でもその模様が流されるということ。
どういう脈絡で紹介されるのかは不明なのですが、
情報として、お知らせいたします。
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暖房が恋しい季節

2011年11月14日 07時07分25秒 | Weblog





天気概況
本州付近は冬型の気圧配置となっています。強い寒気が今夜は東北北部まで南下するでしょう。北陸から北の日本海側は雨や雪が降る見込みです。北海道は平地でも雪が積もりますので、車は冬用のタイヤに交換するなど装備を万全にして下さい。札幌で雪が降ると、昭和以降で最も遅い初雪です。

っていうことなのだそうであります。
札幌は、ここんところ、ようやく寒気が強まってきた気配がありますが、
でも、ここまで比較的温暖な気候が続いていました。
「概況」の通り、
初雪はまだなので、かなり遅い冬の進行。
なんですが、やはり冷え込んでは来ています。
わが家でも、一昨日くらいから暖房を入れはじめております。
ただことしは、わたしの書斎居室では
エアコンによる暖房を実験しております。
わが家では、去年まで1階はあまり使用せず、
2階のコンクリートの床暖房(灯油による温水セントラル)のみで、
ほぼ非暖房室としておりました。
ことしは、わたしが書斎兼用で
ずっと居住することにしたので、温水暖房の回路の事情から
この際、エアコンのみでの暖房を実践してみようとなった次第。
電気料金がどのように推移するか、
ある程度の目安が出てきたら、発表していきたいなと考えております。

さて、今週はいろいろな作業の山場。
ひと山ふた山、乗り越えなければならないのですが、
さて、きのうも夜半まで打合せが続いておりまして
寝不足気味。
でも、まだまだ、頑張るぞと。
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廃屋の美とアートの境界

2011年11月13日 06時40分40秒 | Weblog





先日の住宅見学の合間に
ふと見かけた廃屋であります。
どうも、弱いのです(笑)。
やや不謹慎かとも思ったのですが、
ついうずいてしまうのは、生来の何かのせいなのではないか。
もちろん、このあと、一般の住宅もきちんと見学させていただきました。
<やや、言い訳>

で、廃屋であります。
わたしがどうして廃屋が好きなのか、
いろいろ考えてみて、やはりそれを「人間の手業の痕跡」と
強く認識に刷り込まれているからなのだと思うのです。
芸術であろうとなかろうと、
人間が、「やむにやまれず」という思いで造形したものには
痛切に伝わってくる部分があって、
そういった部分を、「観賞」的に見ているのだと思うのです。
そういったものが、時間の経過、
その地域での気候風土の「研磨」が掛けられていって、
結果として、なにもかも正直に、素裸に露出している。
まぁ、そういう意味では一種の環境芸術的なものとして見ているのかも知れません。
それに対して、カメラを向けて構図などを考えながら
シャッターを切っている行為は、
こちらも一種の表現衝動にかられているとも言えますね。

ここに写っているのは、
小さな居住用スペース、たぶん、6坪程度の寝起きスペースの外側に、
主屋の切妻に下屋として小屋がけした部分です。
たぶん物置なのか、作業場だったのか、
なぜか、ヘルメットが1コ置き捨てられてあって
想像を巡らせていくきっかけを与えてくれています。
こういった、見るものにとっての想像力の仕掛けをさりげなく置いてあるのも
なかなかにアーティスティックであります(笑)。
テレビとか見ているよりも、はるかに刺激される部分が大きい。
そして現実に生起した事実の痕跡を伝えているので
リアリティは圧倒的に迫ってくるものがある。
書かれたものを読んでいたら、倉本聰さんも似たような「趣味」を
持っているそうなので、よかった、
変わっているのは自分だけじゃないんだと、少し安心する部分もあります(笑)。
みなさん、いかが感じられますか?
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国のハコモノ補助政策

2011年11月12日 09時15分38秒 | Weblog





十勝は酪農の発達地域。
他の日本のように、米作による文化の側面が薄い。
北米的な文化土壌があって、米は食べているけれど
ほとんど生産していない。
そうなると、神社仏閣になにか、地生え感が感じられないというのは
見方がすこし、極端だろうか。
まぁ、歴史的な遺物などが少ないので、
他の日本の地域とは、かなり違いを感じる。

で、酪農が盛んで、十勝地域には牛が40万頭ほど存在しているのだそうです。
人間の数より多い。
で、エネルギー源として、かれらの糞尿も大きな存在。
もし、これを放置したり、自然に任せていると
それはそれで、大きな環境問題になる。
そこで、エネルギーと環境問題から
これらを活用するバイオエネルギーというのも自然な流れ。
そういった試みの中で唯一に近い成功例を見学してきました。
牛の糞尿を集めて、ガスでの発電や、
液化肥料などを生産している。
これまでこういった試みはおおむね大企業が
国の補助金を利用して、参入してくるけれど、
結果は、死屍累々たる状況で推移しているということ。
そういうなかでは地元のプラントが唯一の成功例ということで
全国から視察が相次いでいるのだそうです。
お話を聞くと、やはり牛の糞尿といっても、その飼料の違いや
健康状態など、個別に違いがあって、
原材料の違いに配慮した運用を行っていかないと
なかなか事業としては起動していかないということ。

なんですが、
こういった事業は、この写真のような施設は
おおむね、国からの補助金事業。
ハコモノ補助が前提となって事業化の取り組みが行われるのですね。
こういう国税による投資の再配分事業というもの、
その意志決定プロセスというのは、
判断がきわめて難しいと感じますね。
江戸時代の幕府による蝦夷地直轄事業の結果記録など、
こういう公費の使用って、大変難しい。
そのなかでは、この事業は面白い成果を生んでいると思います。
興味津々に見学させていただいた次第であります。
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トイレ前の「前室」

2011年11月11日 06時57分48秒 | Weblog





一昨日、その前日と十勝に行っておりました。
で、住宅見学などしておりました。
そのなかから、帯広の広岡建設さんの現場です。
こちらでは、トイレの前にちょっとした空間が装置されておりました。
上部にRのついた間仕切り壁開口があって、
そこからトイレまでの1畳ほどのスペースであります。
どうせドアが開閉するのでモノを置いたりはできない。
それならいっそ、個室的なスペースにしてしまおう、ということなのか。
広岡さんに確認することが出来なかったのですが、
用としては、たいへん素晴らしいなぁと思いました。
トイレというのは、ひとりっきりになって、
なにか、瞑想的な時間ではある。
その前室として、結界というか、心理に句読点を付ける、という意味合いが
そこはかとなく伝わってくる。

どうも最近の家には、
ひとが句読点を付ける場所、という概念が乏しいように思います。
ある設計者から昔、
子どもがさめざめと泣けるような空間を作っておきたい、
っていう考えを聞かされた経験がありまして、
そうだよ、そういった空間こそが住まいだ、という思いがあります。
なんと言えばいいのか、まぁ、人間に「深み」をつくる、
心を涵養する場所、っていうようなことでしょうか。
住まいは文化現象であり、
人間の精神性を育んでいく場所であるわけで、
そういった部分は、抜けがたく存在すると思います。
昔の日本家屋では、床柱の立てられたハレの間があって、
神棚があり、仏間もあった。
そこにたたずめば、おのずと「家」というものを意識させられ、
己、ということについても人間の絆という形で
そういう連続性の中の事象として、
自らもまた抽象的に存在を自己認識できる場所として機能していた。
己が死を迎えたとしても、その家の連綿の中で、継続していく形が具体的にあった。
先祖があり、子孫がある中で、
自分一個を対象化して考えさせる、そういう場所が
家の中には存在していた。・・・ってまぁ、飛躍しすぎかなぁ(笑)

この家はツーバイフォー。
ちょっとインターナショナルなんだけど、
そういう部分も、なんとなく感じられた住宅見学でした。
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