三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

秋田美人について

2012年01月21日 12時24分09秒 | Weblog




ここのところ、夜の会合機会がありまして、
って、新年会シーズンというところですね。
でもわたしは、あんまりお酒は飲まないワケで、
帰りはまだ地下鉄のある時間に帰ることが多い。
で、先日、札幌地下街を駅まで歩いている途中に、東北各県の観光ポスターに遭遇。
そのなかに「秋田美人」というキャッチの写真を発見。
まぁ、観光用の写真なので、撮影して取り上げさせていただきます。

「秋田美人」の研究をしているという秋田の大学の先生もいるのですが、
この写真、どういうモデル選定でこういう「秋田美人」になったものか、
その大学の先生の説に添ったようなモデル選定であります。
というのは、秋田美人の肌の色素を分析すると、
黒海周辺地域、コーカサス地域の人種的特徴と似通っているといわれているのです。
この写真を見ると、どうもそういった説を踏まえている気がします。
なにか、日本人離れした肌の白さが伝わってくる。
秋田は、日本国家の北方の玄関口として機能していた歴史があります。
奈良から平安にかけて、北方交易の中心であった。
王朝国家が建設していた「秋田城」~江戸期に建てられた武家の城ではない~
では、迎賓用の「水洗トイレ」までしつらえられていた。
異国からの客人への対応の施設だったのですね。
そうすると、その対応した外つ国人とは、どんな人々であったのか?
やはり、北東アジアのアムール川河口周辺から海伝いに南下する人たちが考えられる。
そしてその先には、騎馬民族の人々が広いユーラシア大陸を
放牧を主要な生業として西に東に移動する世界がある。
その西の果てに、コーカサス地方がある。
そういう交易の世界が広く展開していたことは想像に難くない。
まぁ、そんな脈絡から、こうした写真のような雰囲気が
リアリティを持ったロマンとして感じられてくるのですね。

しばし、足を止めてしまって見惚れていた
秋田美人の顛末でありました。
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ダルビッシュくん次のステージへ

2012年01月20日 07時17分22秒 | Weblog






ついにレンジャーズとの契約、決まりましたね。
契約についての駆け引きがいろいろあって
場合によっては急転、日本ハムとの再契約もあるのかと思っていましたが、
どうやら、かれ自身、次のステージへの思いが強かったものと思います。

レンジャーズにはライアンという、伝説的な大リーグの投手が
球団社長でいて、先日行ったときには会ったりもしているようです。
そのライアンさんの言葉がメディアに露出していますが、
非常にダルビッシュのメンタル面のことを好感を持って伝えてくれている。
向上心を強く持った、恵まれた素質に満ちた若者として
ライアンさんは評価してくれていると感じています。
そしてたぶん、ダルビッシュも
そういうライアンさんにリスペクトを持っているのだろうと思います。
野球は人間がやっているのですから、
そういう精神面の強い支えが非常に大きい。
素質と努力が基本的に不可欠でしょうが、最後はメンタルがどうであるかが、
超一流のアスリートにも非常に重要なのだろうと思います。
ダルビッシュは、プロに入ってすぐに、喫煙しながらパチンコ屋さんにいるところを
写真週刊誌に掲載されて、そのときの高田GMをはじめとした周囲の大人たちが
かれを守っていたことがありました。
謹慎させて寮に缶詰めにして、社会人としての教育に取り組んでくれたのですね。
そのときの寮長さんが急死したとき、
「恩人」として、ダルビッシュは悲しみの談話を語ったりしていた。
あの経験は、その後のダルビッシュにとって、
非常に大きな経験だったのではないかと思いました。
その後は、本来持っていた才能と素質をドンドン開花させていったのですが、
精神的に実にまっすぐな部分を持っていると感じ続けていました。
まぁ、女性に対してもまっすぐなんでしょうが(笑)。
その女性での痛い経験も整理が付いて
2人の子どもに対する責任関係も決着したようで、
次のステージにきれいに飛躍できることになりました。
いろいろあったのでしょうけれど、
この時点での決着には、若いふたりの間の善意の部分も感じ取れるのではないでしょうか?
プロのアスリートとしての、長嶋、王、イチローなどのビッグスターのレベルに
これからのかれは挑戦していくことになりますね。
恵まれたかれの資質と、向上心を持ってすれば、必ず瞠目させられるような
そういう活躍が出来ると信じています。
まだ25歳という若さが、無限の可能性を感じさせてくれます。

というところなんですが、
さて、戦力として超巨大だったダルビッシュ抜きで、
わが北海道日本ハムファイターズは、ここから戦いを始めなければなりません。
40億円近い置き土産をかれはわがチームに置いていってくれたのですが、
しかし、かれへのドラフト戦略から育成、成長までを見てみればわかるとおり、
あくまでも、外部からの既成戦力の力を借りると言うよりも
自分で育て上げた戦力で、その底上げでこの困難にも立ち向かって欲しいと思います。
世界球界屈指の選手を育てた自信を持って
若い戦力が大きく伸びていって欲しいと念願しています。
でもなぁ・・・、
毎年期待している吉川君など、若いピッチャーがイマイチ、出てこない。
でも、これも若い栗山監督、
そういう意味では前を向いて行くしかないので、
積極的に、実戦の中で若い投手をどうやって育て上げていくか、
また別の興味も深く湧いて参ります。
けっして素質や能力は劣っているものではない。
ダルビッシュに続く若者が彗星のように出てくれることを期待したいです。
がんばれ、北海道日本ハムファイターズ!
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札幌の建築

2012年01月19日 07時07分53秒 | Weblog





きのうは東京から来客があって、
午後、築32年というコンクリートブロック外断熱の旧荒谷登邸を見学。
わが家もこの建て方なのですが、
断熱厚みが大違いで大変重厚で、FP板150mm+GW100mmというもの。
現在は先生のお弟子さんのイランからの断熱研究者・タギさん一家がお住まい。
家に一歩、足を踏み入れると
その温もりに深く癒される感じがいたします。
暖房熱源は灯油によるセントラルヒーティングなわけですが、
そういう暖房の存在よりも
断熱の威力というものが、実感として伝わって参ります。
灯油使用量も、床面積100坪の建物でありながら
以前住んでいた15坪ほどのマンションと変わらないのだそうです。
北海道での「断熱」は、
境遇を共有するもの同士の助け合いの感覚にも似た
「人権」的な要素を感じるのですが、
まさにそういった感覚が迫ってくる気がしました。
一方で、とくに関東以南地域での「断熱」は
ひとびとの理解がやや違うことが影響してか、
「差別化戦略」のひとつの道具としての技術、というように感じられます。
とくに断熱の効果が顕著になるこの時期、そういう思いが強まります。

で、夕食はごらんの時計台の近くのお店で。
こちらの時計台は、北米の建築様式を取り入れたバルーンフレーム工法。
在来木造構法が隙間だらけであり、それをむしろ積極的に取り入れた工法であって
寒冷地にはアジャストしない工法だったことから、
木造構法自体も輸入せざるを得ず、こうしたデザインも受容したものです。
しかしこうしたデザインが、明治期を通した「舶来趣味」に合致して
脱亜入欧の気分を、現代に至る日本人意識に植え込んできたとも言えると思います。
北海道は、日本人の新天地としての現実的意義は
明治中期くらいまででその中核的部分は失われたと言えるのでしょうが、
いわば気分としての、また体感気候としても、
欧米趣向・異国情緒を感得させる地域として日本の中で位置を占めてきたと思います。

いま、日本は歴史的に見て
脱亜入欧を経験して、そこからアジアを見てきた視点から
ふたたび、江戸期までの東アジア世界を中心とした世界観に戻るのか、
そうではなく、明治以降の世界観を継続していくのか、
だれも結論を出せない問題に直面していると思います。
時計台を見ながら、
そんな妄想にかられておりました。
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氷柱のあるなし

2012年01月18日 06時52分34秒 | Weblog





青森から帰還いたしました。
札幌ははるかに雪が少ないなぁと実感いたしております。
きのうも書きましたが、やはり北海道の都市としては
岩見沢が積雪の代表選手のようですね。
まぁしかし、青森の雪の多さは半端でない。

なんですが、見慣れた雪景色なんだけれど、
北海道で見ている住宅街の雪景色とはどこか違う?
って、気付いたのが「氷柱」であります。
北海道も雪は多くて寒いのだけれど、
最近住宅街を見ていると、ほとんどみかけなくなったのが氷柱なんですね。
まぁ、たまには非住宅の建物で「おおお」というようなのを
見かけることがあるくらいで、
一般住宅ではあんまり見ることがない。
ところが、青森の市内ではむしろ、氷柱が出ていない建物の方が少ない。
印象で言えば、北海道の40年前くらいの風景が展開している。
そうですね、わたしがまだ子どもの頃のような雰囲気に近い。
当時、除雪が追いつかない道路では
歩道は消えてしまっていて、うずたかく積み上げられた雪山の尾根を
子どもたちや、歩行者は歩いていたんですね。
道路脇の雪山から滑り降りるのもひとつの楽しみでもあった(笑)。
まぁだんだんクルマの通行量が増えて危険になっていったのですが。
青森の市街を見ていると、
そのころのことがオーバーラップしてくる。
巨大化した氷柱がいまにも落下しそうな形相で迫ってくる。
まぁ、住宅性能の基本のような話なんですが、
断熱気密がしっかりしていない建物では、室内の暖房熱が屋根面を温め、
雪が融けて、その水分が屋根端部で氷柱を形成するのですね。
すがもりと言って、その水分が建物内部に滞留するようになると
(ってそれが普通なんですが)
建物構造材が腐食していくことになります。
構造の劣化スピードは加速が付いたようになっていく。
北海道が、そこからなんとか抜け出したいとやってきたことが
そのまんま、現代、今、残っているのが現実の東北や北陸、信州や
北関東、中部高地地方、九州北部、総じて日本海側地域、寒冷地日本の現実なのですね。
いや、全国どこでも同じかも知れない。

こういうごく単純な住宅性能のイロハすら、
一般のみなさんはもとより、住宅事業者が無理解であるのが現実なんですね。
ある本州系の「ログハウス」屋さんが北海道に支店を出して
パンフレットを作っていて、その表紙に
自社施工建物の屋根端部の氷柱を撮影した写真を掲載して
「北国らしい風物・・・」というように宣伝していたのを仰天して見た記憶があります。
またある建築家が、やや寒冷地に建った自分の建築作品に氷柱ができるのはどうして?
と、わたしに聞いてきたこともあります。
無理解なんですね。
一般ユーザーは本来知らなくてもいいことだとは思うのですが、
しかし、一般のみなさんも自分の「資産」についてのことですから、
そういう認識は持つべきでもあります。
こういう環境の中で、長期にわたって耐久性を持った建物は
どのように普及させるべきなのか?
道遠し、という実感を持たざるを得ませんね。
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大雪の北日本、岩見沢~青森

2012年01月17日 05時29分20秒 | Weblog




札幌を出て、青森に向かいました。
途中、ことしの雪の多さを列車の車窓から再確認させられています。
まぁ、札幌は「ちょっと多いかなぁ・・・」っていう程度ですが、
同じ石狩湾低気圧の影響で雪が降る岩見沢方面は、半端ではない。
札幌と岩見沢、ほんのちょっとの季節風の具合で大雪の地域が変わるのです。
ここのところ札幌では雪かき、一段落しておりまして、
ややカラダは各所で筋肉痛症状はありますが、緩和してきていて、
まことに岩見沢のみなさんには申し訳ないくらいの気持ちで過ごしておりますが、
それにしてもことしはすごい。以下、ANNのWEBサイトから引用。

北日本で大雪が続いています。
北海道岩見沢市では積雪が180センチを超え、観測記録を更新。
青森では死者も出ています。

連日の大雪の影響で、岩見沢市では15日夜、積雪量が182センチを記録し、1970年3月以来、42年ぶりに観測史上最高値を更新しました。16日朝も大雪警報の出る吹雪のなか、市民は雪かきに追われました。
市民:「とにかくひどい。ここに住んで26年になるが、こんな大雪は初めて」「毎日、雪かきしているから、イヤになったことは確か」
岩見沢市では、15日午後7時の記録更新以降、アメダスの観測装置に不具合が生じ、積雪量は測れていません。16日朝から気象台の職員が修復作業にあたっています。高さ約6メートルの屋根の上で雪下ろしをしていた男性は頭から落下し、発見されました。事故当時、約1メートルの雪の山があったということです。
一方、青森市富田では、15日午後6時半すぎ、青森市堤町の無職男性(73)が雪山に埋もれて亡くなっているのが見つかりました。
近所の人:「屋根の雪、落としているのは見ていた。毎年、1回か2回は雪を捨てにきていた」
男性は、所有する空き家の除雪に出かけていたということ。
<ANNより>

青森市内で雪が多いのは、八甲田山系が原因といわれる。
青森地方気象台によると、シベリア大陸から冷たく乾いた空気が日本海へ流れ込み、
温かい海面から水蒸気を吸い上げ雲となる。
それが標高1500メートル級の山脈にぶつかり、ふもとの青森市で大雪になるという。
さらに、津軽特有の地形も影響する。北西から津軽半島に流れ込む風に加え、
西寄りの風が岩木山の南側を通り抜ける。
その二つの風が、青森市付近でぶつかることで、雪雲が発達。
五所川原から青森、野辺地にかけ大雪となるという解説。
いやはや、すごい状況になっております。
で、青森に着きまして、
市内中心部ホテル周辺でも、ごらんのような屋根雪の様子。
このあたりでは現状不適格の木造3階建て建築もあって、
屋根にはごらんのような雪庇もみられて危険です。
しかし一方で関東地方は雨が全然降らなくて
野菜が高騰する原因になっているとか。
そうなんですよ、キャベツが全然品薄になっている。
キュウリはずっと値段が高止まりしたまま動かない。
なんでもサハラ砂漠よりも現在の関東平野は乾燥した状態なんだとか。

人間の暮らしは、
こうした自然のもたらす地域性とともにあるわけですから
やはり謙虚な姿勢で日々を過ごしていかねばなりませんね。
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地方と東京の関係

2012年01月16日 10時33分28秒 | Weblog




東京の地下鉄に乗っていたときに見た車内広告。
夕張は破綻自治体としてその名を全国に知らしめましたが、
必死の模索が続いているようです。
小泉流構造改革というものは、外交的には徹底した「対米従属」が基本であり、
また、日本をアメリカ的な「標準化」の方向にもっていくものだったと言えるでしょう。
その結果として、というかそれまでの流れをさらに加速するものとして
政策は機能して、地方の画一化、過疎化の加速は
どんどんと進んでいったのだと思います。
いま、住宅の外形的な姿は全国どこでも画一化が進み、
街並みからも「個性」が失われていっていると思います。
先日触れた伊東豊雄さんの釜石の復興計画での発言などを聞いていると、
そうしたことへの東京側からの反省のようなものは少し出てきているのでしょうか?
しかし、それはひとり建築だけが負うべきテーマではないように思います。
むしろ問題なのは、東北復興のテーマに際して
「世界的な建築家」という名声に単純に依拠して、
ミニ東京を全国に行き渡らせたひとびとが、地方性というテーマをも
リードしてきている現実、そうならざるを得ないことの方が問題だと思う。
いわば地方性すら、東京が仕切っていって本当にいいのか、
そういう論議がなかなか表出してこない。
もちろん、これまでの「地方の独自性」というものにパワーがなく、
全国的、あるいは全世界的にパンチがないから、
というように思われてならない。
しかし、そういう選択の末にどのような地域性が残っていくのだろうか?
日本社会は抜けがたく「貴種流離譚」が好きな国民性であり、
今回の震災復興でも、そうした構図が見えていることは
きわめて複雑な心境になります。
単純に、地域復興計画の実際は東京のシンクタンク企業が圧倒的に受注しているのが
現実なのですね。
東北地元の設計者が応募しても、そういうルートにはなかなか敵わない。
被災地域が広域だということが、このような流れを生んでいるのか。

北海道の一地域自治体が
東京でこのようにアピールをする、あるいはしなければならない、
という現実の中に、いろいろ考えなければならないことが
たくさんあると思わされた次第です。
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2012年01月15日 09時23分24秒 | Weblog





先日、先代MacBookProが逝った日、
かわいそうなかれを背中に背負って、永代橋から
銀座Applestoreまで歩いた道すがら、
遠目に見て「あ、これは・・・」と思ってみたビルです。
COREDO日本橋という名前が書かれていましたが
たぶん、ビル名と思われます。

東京の新しいビルというのはガラス建築と言った方がいいデザインが主流。
仙台のメディアテークを設計した伊東豊雄さんのような手法が
「東京」というデザインを引っ張っていっているとは言える。
その手法とは、スケスケのガラスを全面に使ったような
「エッジの立った」手法というのが通り相場。
しかし、こういう手法はガラスの存在感というか
素材としてのガラスに大きく依存しているので
その耐久性というものについて、検証は十分に行われているとは思われない。
現に仙台メディアテークでは、東日本大震災後、
ガラスの破損箇所があり、それが外壁の主要構造を形成していることから
数ヶ月程度、使用が出来なくなっていた。
また内部でも多くの落下物があったというお話も聞いています。
しかし、デザインとしてはわかりやすく「透明感がある」ので、
その後、全国に似たような建築がごろごろ建てられている。
とくに東京では、素材としてモダニズムを端的に表現できる、
という思い込みから、それこそ山ほど建てられている。
最近、そうした建築からガラスが落ちたりする危険も取り上げられ、
検証が進んでいる過程だと思います。
で、取引先の会社もこういうビルに入っているのですが、
日射遮蔽はまったく考えられていないので、
年中、「透明な壁」のガラス面は開放されることなくブラインドが閉められている。
まともにブラインドを開けると、
それこそ冬でも耐えられないほどの日射取得で室内環境は高温化する。
目で感覚する「快適性」に目を奪われて(笑)
人間有機体の当たり前の皮膚感覚が考慮されていない。
断熱という概念のかけらも理解しようとしないデザインしかなく、
ひたすら原発由来の電気の大量利用による
冷房運転に依拠するしかない建築群だと思っていました。
まぁ少しでも考えれば、
まずは庇を設置することが最優先に考えられるべきでしょう。
そういう認識のかけらをこの建物に見た次第。

しかしこういう建築デザインは、
これからも、もてはやされ続けていくのでしょうか?
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北海道と東北

2012年01月14日 07時28分27秒 | Weblog




きのうは北海道の工務店グループ団体ソトダン21の新年会合。
毎年正月が開けてすぐの頃に行われております。
今回は東北・宮城から東北フォーラムの氏家さんもお迎えしての会。
メインのお話しは北海道の断熱研究者の嚆矢ともいえる
荒谷登先生やお弟子さんに当たるイランからの研究者・タギさんの講演でしたが、
もう一方に、東北の実情の報告もあったわけです。
わたしも、そちらでの活動のご紹介、
住宅業界にとっての意味合いなどのお話しをさせていただきました。

わたしどもの雑誌、Replanは北海道で生まれて
その後、東北でも出版を行っているのですが、
この両地域って交流がありそうで、なかなかない。
まぁ北海道と行っても、函館などの道南地域は
青森との関係の方が、ほかの北海道地域と比べて大きいと思いますが、
道央地域、室蘭くらいから北の地域になると、
一番近い本州地域は、いきなり東京であるケースの方が多い。
たとえば札幌からいちばん早く行ける他県って、
その利便性も加味したら、絶対、東京なわけです。
千歳空港は羽田から来ても違和感が少ないし、
飛行機の便数で言ったら、千歳ー羽田は世界第1位のドル箱路線。

<資料>世界で最も忙しい路線は羽田千歳
順位 路線 座席数 就航会社数 便数(2011/9)
1位 羽田発新千歳行き 26万9500席 4 67

っていうことを知っている日本人の少なさに驚くほどです。
で、その一方で、北海道と東北の関係性は希薄。
地域性ということを考えていくときに、この点は大きいなぁといつも実感しています。
さらに東北は、各県ごとの違いが大きい。
非常に独立的な地域性がそれぞれ各県で残っていて、
「東北中央」的な視点は乏しい。
北海道は、その点、まったく札幌への集中度合いが高い。
たぶん、歴史経緯的な違いがこのように結果しているのでしょうが、
どちらも東京への志向が強くて
お互いへの関心はイマイチ、薄いというように言えるのでしょう。

まぁそういう印象を持ちながら、
でも、みなさん東北の現在の状況のお話には強く興味を持っていただいたようでした。
なにかしたいけれど、何をしたらいいのかわからない。
っていうような状況が北海道の現状なのだと思います。
少し考えていかなければならないテーマでしょうね。
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赤米ってうまい!

2012年01月13日 07時23分20秒 | Weblog





写真は以前に行った「登呂遺跡」の住居で食べさせていただいた「赤米」。
ふだん食べている精米に比べると、味わいが深い。
滋味があふれているというか、味が際だっている。
これならこれだけでも十分に食べられるなぁと実感したのですが、
そこでふと、日本人の食生活、和食に考えが至りました。
和食って、米ばかりではなく、
そばやうどんなどの麺類も含まれる炭水化物と、
豊かな種類のサカナや動物性タンパク、
それに日本の風土に育まれた野菜がメインプレーヤー。
でも、米以前の縄文的な食生活って、
痕跡がないものなのでしょうか?
そう考えると、やはり「副食」のなかにそのヒントがあるのでしょうね。
縄文の食生活って、
北海道南部の、三内丸山との類縁性が指摘される遺跡には
大型哺乳動物、たぶん、くじらをステーキにして食べたとおぼしき
ステーキの石皿が大量に出土していました。
それに栽培されていたと推定されているクリなどの木の実から作ったであろう
クッキー状の食べ物が考えられている。
それはクッキーとしてそのまま食べることもあっただろうけれど、
たぶん、他の食材と一緒に鍋に割り入れて、食べたに相違ないと思います。
アイヌの人たちの基本食も鍋料理。
やはり、日本食の基本はどうも鍋料理のような気がします。
縄文の時代には土器がその主役でしょうね。
土鍋というものがいまでもあり続けているのは、
そういった民俗をそこはかとなく伝えていることなのかも知れない。
で、そういう社会に米の生産という革命がもたらされた。
米の生産ということになると、たぶん、すぐにでもシステムとしての神頼みが
伴ってきたのではないか。
いつの時期に米を植えるべきなのか、
どのような集団労働を行うべきなのか、などなど、
「支配」の要素が生まれていったのだろうと思います。
原始「天皇制」の揺籃時代だったのではないか、と空想します。
でも米の生産って、たぶん、北東北ではまったくうまくいかなかったに違いない。
そうでなくても、畿内地域からですら、
農地での奴隷的な労働から逃れ出てきた流民が
大量発生していたのが常態であったと思われるのです。
米の生産から逃げ出す人が多かったに違いない。
北東北では、採れもしないコメ生産に強制的に従事させられること自体、
反乱の基本要因になっていたと思います。
しかも、ワケのわからない「権力」や「律令」という文明を強制までしてくる。
で、縄文的生活システムからすると
このコメ生産システムということも、「環境破壊」そのものだったに違いない。
それまでの豊かな森、山河が、
すべて伐採されたり、水利の用に利されたりした。

っていうような妄想にしばし浸っておりました(笑)。
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住宅の「地域連携」って?

2012年01月12日 10時00分52秒 | Weblog




国土交通省という役所は、
住宅建築というきわめて民間的な事象について
なんとかその責任を果たしたいというか、使命感を持ちたいと考えるようです。
住宅の政策というと、わたしなどは北欧諸国の
「良き住宅について」というような住宅基本法のようなものを想起します。
というのは、はじめて北欧に在住する建築家と交流を持った20年以上前に
彼の地の政府には、住宅政策が基本的人権に由来しながら立案されているという
目の覚めるような言葉を聞いたからです。
厳しい寒さの北欧では、まさに人間を守る基本的な営為としての家づくりが
ごく当たり前に志向されていると聞かされました。
また、高福祉という考え方とも相まって、
ほぼ「基本的人権」の立場に近い「住宅政策」が機能していることに驚いたものです。
現在でも、ドイツでのパッシブハウス運動などを見ていると
根本は「黒い森酸性雨問題」からの基本的生存権の問題のように感じ続けています。

一方、日本の「住宅政策」であります。
これまでは、基本的に「ハウス55計画」的な、
戦後の焼け野原からの急速な回復、
とにかく家族数の急膨張に追いつかないから大量に家を建てる生産体制優先、
という流れが根っこにあったのだろうと思います。
それが、あるころからか、すでに充分充足しているのに
「景気対策」のほうに主眼が置かれた膨張政策が依然として行われてきたと思います。
さらに土建国家的な段階から徐々に「国土政策」も推移してきて、
これまでは考えられなかった、国の主導による「あるべき住宅」的な政策に
転換を見せてきている。
5年間にわたって取り組まれている「長期優良住宅政策」などでの
「補助金による誘導政策」などは、その顕著な事例だと思います。
しかしこのような日本国家の住宅政策は、これまで主として
大規模ハウスメーカー、いわば大企業にだけ視線が向いた施策が行われてきた。
そうした問題点に行政府側も気付いてきて
では、地域にどうやって目を向けるか、と考えた結果が
「地域連携」という施策の流れなのだろうと思われます。
いまさかんにヒートアップしている福島県の「ふくしまの家」プロポーザルなどは
こうした流れの嚆矢ともいえると思います。
・・・まぁいろいろ情報を集めてみると、なかなか一筋縄ではいかないような(笑)。
さて、どのような流れになっていくものか、
注目していかなければならないと思っています。
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