6月の近鉄百貨店の個展で、案内状に使っていた水彩画は、
「ソウル・フラワー」というタイトルです。
「どんな意味?」と聞かれますが、その名の通り「魂の花」。
いつも、タイトルはフィーリングでつけたり、深い意味を込めたり。
色々なんですが、ストライク!が入った時は嬉しくなります。
「この絵には、このタイトルしか無い!」みたいな。
4月に、北海道のお友達からラベンダーの絵ハガキをもらって、
さわやかな風を大阪に運んでもらいました。
今回の個展も、子供たちが花々と自由にたわむれる絵が多かったのですが、
311への鎮魂の気持ちが無意識に出てきたもので、
自分の中で否定しないでおこうと思いました。
言葉では言い尽くせないものを、絵にあらわすというのが、
絵描きの使命つうか、一番面白いところじゃないのかなあ。
心の中の「モヤモヤ感」を、形にするのが表現の仕事。
「これはチュリーップの絵」とか、
「これは可愛い絵」とか、
「これは売れる絵」とか。
レッテル貼りはなんだかおかしい気がする。。。いつも思うこと。
だって「ピカソの絵」で通じますよね。
「岡本太郎の絵」って言うだけで、説得力充分ですよね。
私の絵も「上砂理佳の絵」。それだけ。
私はやはりずーっと、あの津波の泥の中に埋もれてしまった、
小さな子供達が可哀想でならないのだと思います。
私の兄がとても若くして亡くなったので、
「無念」の思いが、重なるのかもしれません。
幼くしてああいう形で亡くなるということは、
「まだ生きたかったよ。もっと遊びたかったし、大人にもなりたかったよ」
という想いをいっぱい残して天に行ってしまったということで、
魂がまだこの世を浮遊してるような気がするんです。
私はその魂を、「解き放ちたい」欲求が強い。
恐ろしい泥水ではなく、花や光の中で、自由に遊んで欲しいのです。
きっとそう思っているから、そういう絵が自分から出てくるのだと思うんです。
でも、またいつかその魂は、別のものに姿を変えて、
再び地上に生まれてくる。だから、悲しむことは無い。
悲しむことは無いのだ。そうも思います。
原発事故による虚無感と、再びの希望と。
よどんだものと輝くものが、
ないまぜになって心を占める日々。