中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

携帯電話

2007-04-05 08:59:26 | 身辺雑記
 朝、駅の喫茶店で朝食を食べていると、店の隅の方から携帯電話で話している女性の声が聞こえてきた。その方を見ると中年の大柄な女性が話していた。内容までは分らないが何か打ち合わせをしているようで、店内は静かだから少し調子の高い声がうるさく、最近はこのように人前でも大きな声で話す者は少なくなっているから、無神経だなあと疎ましく思った。午後は昼食後にコーヒーが飲みたくなって喫茶店に入った。しばらくすると若い男性が立ち上がって店の外に出て行きしばらくして戻ってきたのを見ると、手に携帯電話を持っている。中年の男性が座っている前に戻ったから、相手の前で話すのを遠慮して外に出たのだろう。これが普通のマナーだと思う。

 携帯電話(携帯)の使用者の人口は相変わらず増加しているようだ。私も持っているが、メール機能を扱うことを敬遠して、電話としてしか使っていない。それも家に置きっぱなしのことが多く、人と待ち合わせした時に、相手から掛けられても役に立たず、何のために持っているのかと冷やかされることがよくある。近ごろの携帯はますます多機能になっているようで、余計に私には縁遠いものになっている。

 喫茶店などで見る若い女性の多くが、タバコとライター、化粧品の入ったバッグ、そして携帯の「3種の神器」を持っている。特に携帯は若い人達の必需品になっているようで、街頭、店内、車内、至る所で見かける。

 3月5日付の朝日新聞の「天声人語」に、巨大な魚が釣り糸に掛かると必死の格闘を強いられることになり、「どっちが釣られているんだか、分らない」と言う作家の開高健氏の言葉を引き、「よく似た思いを、道具に対して抱くときがある。昨今ならさしずめ1億台に迫った携帯電話か。仕事の連絡、遊びの誘い、その他もろもろ、どこにいても追いかけてくる。多くの人が24時間の臨戦態勢だ。使っているのか、使われているのか、分らなくなってくる」と書いている。

 そのような感想を持つことになるような光景は至るところで見られるし、苦々しい思いをさせられることも少なくないが、今では特に若い人達にとっては、携帯は話すよりも見るもののようで、車内や喫茶店などではひたすら携帯のディスプレーを見つめている光景をよく見る。男性より女性の方が多いようだ。以前、ある駅に電車が停車してドアが開いたら、若い女性が5、6人、全員携帯の画面を覗き込みながらすーっと乗り込んできた。皆目を見開き、無表情な何か魂の抜けたような様子で、以前人気のあった香港のテレビドラマのキョンシーのような薄気味悪い感じさえした。このような姿を見ると、携帯に取り付かれてしまっているようにも思われ、携帯がもたらす、一種の麻薬中毒のような病的な側面を見るような気がする。