中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

雲雀

2007-04-08 09:46:55 | 身辺雑記
 戦後、私達の家族は滋賀県大津市に移り住んだ。琵琶湖の西岸、比叡山の山麓で、天智天皇の志賀の都のあった辺りだ。現在は「開発」が進んで、すっかり様相は変わってしまったが、当時は春には小麦が、秋には稲が稔る田園地帯だった。春の陽光のうららかな頃、ぶらぶらと小麦畑の畦道を歩くことがあった。今では小麦などはほとんど見られなくなったが、あの頃は美しい緑色の絨毯が広がっているような中を歩くのは、少年時代のささやかな楽しみだった。

 そんな時、空には雲雀が高い声で囀るのが聞こえる。見上げると遥か高みに雲雀が空中停止しているようにして、チーチクとけたたましく囀っている。自分の縄張りを宣言しているのだそうだ。じっと見ていると、やがて鳴き止み石が落ちるように一直線に小麦畑の中に降りて来る。雲雀は小麦の株の根元に巣を作っているのだが、外敵を警戒して、巣からかなり離れた所に降りてから、ひょこひょこと巣に近づいていくらしい。しかし飛び立つ時は巣のあるところから舞い上がるようで、それを見定めて巣を見たいものだと思ったが、当時の私はその土地ではよそ者だったから、農家の人に叱られるのを恐れて畑に入ることをしなかった。現に私の幼い弟やその仲間の女の子達は苗代の稲の苗をきれいな草だと思って摘み取っていて、持ち主に怒鳴られ追いかけられ、血相を変えて逃げ帰ってきたと母から聞いたことがあった。そんなことで、私は一度も巣や卵、雛などを見たことがない。

 雲雀が空高く舞い上がっているのを揚雲雀と言うが、その言葉を聞くと思い出す詩がある。

  春 の 朝
       
        ロバート・ブラウニング        

   時は春、             
   日は朝、
   朝は七時、
   片岡に露みちて、
   揚雲雀なのりいで、
   蝸牛 枝に這ひ、
   神、そらに知ろしめす。
   すべて世は事も無し。   

 上田 敏(1874~1916)の訳詩集である「海潮音」(明治38年、1905年)に収められている詩の1つ。若い時には岩波か新潮かの文庫本のこの詩集を愛読したものだ。彼の訳詩はほとんど創作かと思われるほどのものとして有名で、私の亡父が生まれた年、100年以上も前のものとは思われない。他にもポール・ベルレーヌの「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみて・・・」や、カアル・ブッセの「山のあなたの空遠く『幸』住むと人のいう・・・」など愛唱されてきたものがある。この「春の朝(あした)」も有名で、当時の私は好きで暗誦していた。

 今朝、近所の稲荷神社の森で鶯が囀っている声を聞いた。この春初めてだ。いつ聞いても美しい声で、春の訪れを実感させられる。雲雀の囀りも、もう一度聞きたいものだと思う。雲雀の声を聞くと春の陽光の暖かさを感じる。