中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

差別する言葉(3)

2007-04-18 09:04:00 | 身辺雑記
 言葉を適切に使うことは難しいことではあるが、そこに差別の有無が問われるとなおさらだ。かつてある女性市会議員と仕事のことで話していたとき、途中で私が「それはちょっと片手落ちですね」と言うと、「その言葉は差別語よ」と指摘された。身体障害者に対する差別だと言うことだ。しかし私の人権感覚が希薄だと言われればそれまでだが、どうも納得できなかったし、今でもそうだ。「手落ち」と言うのは「手続き、手段に欠点・不便のあること。おちど。手抜かり」(広辞苑)と言うことで、ごく普通に使われるが、これも差別語なのだろうか。「手」と言う語そのものには実際の手を指す以外に実にさまざまな意味がある。「てだて、手段、方法」の意味もその1つだ。「片手落ち」も「配慮が一方にだけにかたよること」だから、この言葉自体に本来差別的な意味はない。それを人体の手に限定し、その1つがないことと捉えて障害者に対する差別語とするのは疑問に思う。「片手落ち」が差別語と言うのなら「手落ち」も差別語と言うことになる。言葉には歴史的、文化的な背景があり、中には差別的な背景持つものがあることは事実だ。だからと言ってすべてをあまりにも今風に解釈し死語としていくのは、言葉の貧困さを招くことにならないか。

 差別あるいは差別感情が残る限り、差別語はなくならないし、新しく作られることもある。新しく作られなくても、既にある言葉が差別意識を持って使われることもあるだろう。以前朝の通勤電車の中で、前に立っていた2人の女子高校生が、テレビドラマの話をしていた。聞くとはなしに耳に入ってきたのは「ガイシャ」と言う言葉だった。それで興味を持って聞いていると、どうやらその当時ちょっとした話題になった、知的障害を持つ若い女性を描いたドラマのことのようだった。それで判ったのは彼女達が言う「ガイシャ」は「障害者」のことだった。そのようにごく普通の会話の中で使われ、それで通じ合っているのは、このような言葉が少なくとも高校生くらいの者の間では普通になっているからだろう、新しい差別語ではないかと思ったのだった。