癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

12日目 39池鯉鮒宿~40鳴海宿~41宮〈17.5km〉

2017年06月06日 | 登山・旅行
 これまで予定通りに歩くことができ、予備日も残っている。そこで、今日は、東海道の宮宿をゴールとして、残りの2日間で佐屋街道を歩くことにした。

 9時間近く爆睡した宿を出て、6:30に東海道に戻って、スタート。曇り勝ちで暑くもなく、時間的余裕もあるのでのんびり歩いた。

     
 国道1号と少し合流して、その後は落ち着いた旧街道歩きとなる。やがて、昔の三河と尾張の境目に架かる「境橋」を越える。ここから名古屋市だった。

     
 対になって現存する「阿野の一里塚」。愛知県内で対になって残っているのは、昨日見た「知立の一里塚」と2ヶ所だけとのこと。

     
 桶狭間の戦いの古戦場跡公園

     
 桶狭間の戦いで、織田信長に破れた今川義元の墓

     
     
 やがて、間の宿・有松へ入っていく。ここは、江戸時代末期から昭和初期までの家並みがびっしりと並び、これまでで、もっとも昔の豪華な町並みの雰囲気を残している町だった。

 もともと、「有松絞り」で栄えたところで、商人たちは、その富を店先の装飾や家並みに当てて繁盛振りを競いあったために、いつしか「田舎に京の有松あり」と言われるようになったそうだ。現在でも、当時の賑わい振りを醸し出している。
 また、町並み保存地区の指定を受けて、観光にも力をいれていて、どの家にも「ありまつ」の絞りの暖簾を下げている。

     
 有松を代表する有松絞りの典型的な老舗・井桁屋

     
 井桁屋を基にした有松絞り商家の造りの説明
      
     
 旧街道の道幅の家並みが続く一本道を進むと鳴海宿に入っていく。

     
 有松があまりにも立派だっただけにやや寂しい町並みだった。特に、宿場の雰囲気も残しておらず、本陣跡も説明板だけだった。

     
 鳴海宿は寺社の多い宿場だが、中でも誓願寺には、全国最古の芭蕉の供養塔が残り、そばに芭蕉堂が建っていた。

     
 みごとな榎が生えている「笠寺の一里塚」。片方だけだが、名古屋市で現存するのはここだけとのこと。

     
 そのすぐ先の笠寺観音では、昔から続く六の市で大賑わいだった。名古屋市でも名物らしく、境内や駐車場や参道に50軒ほどの露店が並んでいた。昔は100軒もあったのに…と悔しがっていたおばさんがいた。

     
 その露店の中に、今が旬という初めて目にする真竹のタケノコを売っている所があった。4月が旬の孟宗竹のタケノコよりは細くて長い。
 その煮物を味見したらとても美味しかったので、1パックゲットして、すぐに食べた。

     
 やがて、名古屋市内の大きな工場や商店街を見ながら進むと、宮宿へと入っていく。宿場の中心地は伝馬町界隈だったらしい。
 宮宿は1900年の歴史を誇る熱田神宮の門前町として栄え、海路桑名へ向かう「七里の渡し」を控え、佐屋街道や美濃街道の交通の要衝として、さらには、城下町名古屋の表口として、東海道一の繁栄を誇った宿場だったらしい。しかし、今はその面影ない。

     
 街道から熱田神宮へ寄ってみた。門を潜ってから本宮までが遠かった。
 熱田という地名は道南の八雲町にもある。この辺りから開拓に入り、熱田神社を祀っている

     
     
 境内に「清見の茶屋 宮のきしめん」があった。ちょうど昼だったので、迷わず入店。冷やしきしめんをたべたが、汁が最高に美味かった。

     
     
 その後、今日のゴールとした桑名への海路の「七里の渡し公園」へ。
 13:00ちょうどで、今日の行動時間は、6時間半だった。

 なお、東海道の492kmには、宮宿から桑名宿間の海路の7里(28km)は含まれていない。ここを今回の前半の東海道歩き旅のゴールとしたのは、ちょうどキリが良いからである。

 通して歩く人は、桑名まではバスで移動する人が多いという。しかし、旅に出る前に調べたら、3代将軍家光のころから、陸路として、「佐屋街道」が開かれていたことが分かった。

 そこで、明日と明後日でこの佐屋街道を歩くことにした。
 
 地下鉄に乗り、今日の宿とした「カプセルホテルふじ栄」(3,200円)へ。366室と多彩な浴場、今までで利用したカプセルホテルでもっとも大きな規模だった。

 まずは、大浴場でのんびり疲れを抜いて、ブログをアップ。夕食はこの中のレストランで味噌カツ定食を食べた。