恐れていたことが起こった・・・昨日、最近治安の悪くなったアフガニスタンだが、その国の復興支援事業に尽くしてきた功績大の「名誉国民」にも認定されていた中村医師が銃撃されて亡くなった。73歳である。
中村医師を知ったのは、2008年6月に函館市芸術ホールで開催された講演会だった。
演題は「医者、用水路を拓く」・・・・「なぜ医者が用水路を?」という率直な思いで参加したものだった。
内容は、パキスタンとアフガニスタンの国境付近で、1984年からの貧困層や難民の診療に携わり、当初は、診療所や病院の建設に取り組んだが、水がないために、また干魃のために幼い命がどんどん奪われていく。
井戸や用水路の確保が、結果的に診療で命を救うより多くの命を救い、生活基盤としての農業の振興にも繋がる・・・・「百の診療所より一本の用水路を!」ということで、2000年以降はアフガニスタンを襲った大干魃対策で水源の確保事業、03年からは灌漑水利計画に取り組んだ経過と苦労が中心のお話であった。
戦乱と大干魃の中、先頭に立ち、現地の人たちを動かして、1500本の井戸を掘り、13kmの用水路(当時)を拓いた。自ら重機を運転する姿が印象的だった。
診療所や病院の建設も含めて、それらを支えたのが日本からの寄付金によって賄われている「ペシャワール会」という団体である。
わずか150cmほどの小さな体で、力味のない淡々とした静かな語り口・・・それだけに内に秘められた情熱とバイタリティの偉大さに感動したのを覚えている。
中村さんと現地の関わりは「山と蝶」だったという。1978年、31歳の中村さんは、社会人山岳会のティリチ・ミール遠征隊に医師として参加していた。
きっかけは偶然だった。当初予定していた医師が急に行けなくなり、その代わりとして声がかかったのだという。
もともと山が好きで、カラコルム山脈に憧れがあった中村さんは、2つ返事で引き受けた。
実はもうひとつ理由があり、それが蝶だった。一帯はモンシロチョウの起源の地と言われており、幼少期から『ファーブル昆虫記』を熟読していた中村さんにとって、いつか行きたい場所だったのだ。
中村さんは、そんな憧れの地で銃撃され、命を落とした。ご冥福を心から祈る。
〇いきなりのドカ雪~今季初の雪かき
昨日からの降雪で、今朝起きたら25cm以上も積もっていた。
シーズン最中でもひと晩でこれだけのドカ雪はなかなかない。
初雪掻きだが、家の前だけで40分も掛かり疲れてしまった。
今季も運動だと思って引き受けている亀田本町会館の駐車場だが、10cmくらいなら、週明けの暖気で解けてしまうのて、放って置こうと思った。
しかし、これだけ降るとそうもいかない。おまけに、木曜日は亀田公民館の受講者の車が多く利用する日である。
これだけ降るとスノーダンプのお出ましである。結局1時間30分も掛かって汗だくになった。
良い運動にはなるが、普段使わない筋肉なので、明日辺りどこか筋肉痛になるかもしれない?
今夜は、顧問を仰せつかっている退職組織の理事会の忘年会である。