癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

戸井地区の産業遺産探訪

2020年06月14日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 函館市旧戸井地区には、産業遺産や近代土木遺産に指定されている遺構として、「コンクリートアーチ橋」、「鰯袋澗」、「汐首崎砲台遺構」があるという。コンクリートアーチ橋はいつも見ているが、汐首崎砲台のことは知ってはいたが見たことがないし、鰯袋澗に至っては、初めて知った次第・・・ということで、カメラに収めに行ってきた。

コンクリートアーチ橋

 これはいつも目にしている旧戸井線の遺構である。津軽要塞の一部をなす汐首岬第一・第二要塞へ兵員物資の輸送目的で昭和11年(1936)着工。しかし戦局の悪化とそれに伴う資材不足から、昭和18年(1943)に全線29.2キロ中、2.8キロを残して工事は中断。したがって廃線ではなく幻の鉄路と言われている。

 敗戦によって戸井線の必要性も失せたことから、戦後は工事が再開されることも施設が維持管理されることも無く放置されたままになり、昭和46年になって戸井線全線は土地を含めて国鉄から自治体に無償譲渡されている。

 しかし、鉄が不足していた戦時中に建設されたために、橋脚や陸橋のコンクリートは鉄筋の換わりに木材や竹が使われていたり、コンクリート自体も粗悪なうえ長年風雨と潮風に晒されてきたため非常に脆くなっていて、専門家からは崩壊の危険性が指摘されている。

 なお、これらのアーチ橋の上は今でも歩けるし、自分も、湯の川から終点駅の予定だった戸井支所まで、この旧戸井線の上を歩いている。↓↓↓

旧戸井線探訪ウォーク②「湯の川~戸井間」の( 23km)」の記録 (2015,3,26)

旧戸井線探訪ウォーク①「五稜郭~湯川間」の記録(2013,12,11) 

 

鰯袋澗

 「袋澗」は2006年(平成18年)2月17日に水産庁が発表した「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に選ばれているが、ここ以外の北海道の袋澗は、日本海側に多く残るニシンの袋澗である。それだけにこのイワシの袋澗は非常に貴重なものらしい。

 町史によると戸井町の鰯漁は、文政年間から始まり明治33年から昭和14年まで40年間も大漁が続いたそうだ。しかし現代のように設備が整っていなかった時代の事、海がシケて鰯を沖揚げ出来なくて海に棄てる事があったそう。そのような事態を避けるために網元によって造られたのが、この「袋澗(鰯をつめた袋網を入れた澗)」。

 町史によると、戸井町で最初に「袋澗」を造ったのは、小柳吉太郎氏で明治42年(1909)で、氏が若い頃に鰯漁の出稼ぎに出た後志地方で見たものを、地元に帰ってから見よう見まねで造ったらしい。以後、汐首岬周辺には石田玉蔵氏が明治44年、吉崎吉松氏が大正5年、境氏(名不詳)が大正6年、西崎吉太郎氏が対象7年、吉崎岩吉氏が大正12年に「袋澗」を造ったとのこと。


 写真に撮った「袋澗」は、「北海道~本州最短の地」の看板のすぐ下にある。これは、大正12年に吉崎岩吉が造ったもののようで、「吉崎の袋澗」と呼ばれている。

 

汐首崎第一砲台跡

迷彩色が印象的な旧戸井高校グランド手前の砲台遺構

 函館要塞は、明治29年頃から函館港と函館湾を守備することを目的に要塞設置が計画され、函館山全体が要塞となった。昭和に入り、守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首崎砲台及び大間崎砲台を完成させて、昭和2年名称を津軽要塞と変えている。
 昭和4年(1929)6月に工事が始まり、同8年に竣工。これにより、要塞は函館だけではなく津軽海峡全体を守ることとなった

 函館市史によるとこの周辺には全部で30cm榴弾砲が4門配備されていた。当初の予定では、汐首崎第一砲台には7年式30cm長榴弾砲計8門が配備される予定だった。しかし、刻々と変わる国際情勢により計画も再検討され、「汐首崎第二砲台」が昭和13年に起工し、途中で備砲を45式15cmカノン砲(改造固定式)2門から 96式15cmカノン砲4門に変更し、15年6月に竣工。逆に同年7月、汐首崎第一砲台の30センチ榴弾砲は撤去されている。

 最初は、旧戸井高校の前を通って奥へ進み、右手にあるグランドへの道路を入った。そのグランドの手前にあったのが、トップ画像の遺構である。この画像の右に写っている遺構は、トップ画像の裏側である。

 トップ画像の右手にある遺構は一段低いところに続いているようなので、道路を戻って、古い市営住宅の奥に見える方へ入ってみた。

グランドの右手に見えた遺構で、下の2枚の写真と半円状に繋がっている。

その右に続く中央部。木が植えられているところは円形になっているので、台座の跡か?

右翼部

 左翼部の内部は写真のようになっている。以前は付近の住民の物置となっていたようだが、今は整理されていて、中へ入れないようになっている。今日お会いした近所の方の話では、第二次世界大戦時には、砲台としての機能は終わっていて、住民の防空壕として利用していたとのこと。

 ちなみに、この敷地は旧戸井高校の奥にある古い市営住宅やグランドに接しているので、所有者は北海道もしくは函館市と思われる。付近にはこの遺構を伝える看板や標識などのものは一切ない。

 個人的には、非常に疑問が残る。汐首崎砲台というのに、海岸から1kmほど奥まった谷あいにあり、津軽海峡は見えないところである。このような海も見えないところに砲台を造った意味がが全く分からない。函館山要塞跡でも砲台は海が見える突き出たところや高いところに造られている。

 なお、汐首岬第二砲台、砲弾倉庫、観測所、地下火薬庫などは戦後、GHQの手によって爆破され、その痕跡はほとんど残っていないという。しかし、検索していたら、場所等の説明はないが、第二砲台跡の探訪写真中心のページが見つかった。今日お会いした近所の方の話では、「日新中学校の上の険しいところに砲台があったと聞いている」とのこと。これが第二砲台なら、高いところで海も見える。

 また、自分が、ここから直線距離で3kmほど東の、日浦岬の上の日浦御殿山(219m)に登った時に、やはり津軽要塞跡の遺構と思われるものを目にしている。

 であれば、もっと近く(直線距離で1.5km)の武井ノ島展望台に砲台か監視所(観測所)などがあっても不思議ではないと思い、帰りにそこにも寄ってみたが、それらしい遺構は見当たらなかった。しかし、今は展望台と東屋が建っているところにそれらがあったのかもしれない?

武井ノ島展望台から武井ノ島を眺める

展望台に咲いていたハマナス

展望台への遊歩道に咲いていたシュロソウとエゾキスゲ(エゾカンゾウ・エゾゼンテイカ)