題名からして、あの有名な道長の句が登場すると思います。
長和四(1015)年
道長の意を受けた源俊賢と藤原公任が、帝に譲位を迫ります。
帝は、対抗措置として、皇女・禔子内親王を頼通の妻にと、言い出します。
頼通は、前回で描かれたように、隆子一筋。
とはいえ、いずれは、妾を持つことになるのでしょう。跡継ぎは、必要ですから。
彰子は、土御門に移っていました。
「かつての私のようで、気の毒だ。」「父上も、おなごの心をお考えになったことは、あるのか。」「この婚儀は、誰も幸せにせぬと断るがよい。」
なかなか、帝の申し出を断ることは、難しいと思いますが。
すっかり風格が出てきた彰子です。
道長は、妍子のところへ。
「父上は禎子が生まれた時、皇子ではないのかと、いたく気を落とされたと聞きました」と痛いところをつく妍子。
道長は、頼通に、「病になれ、それしかない。」
一方の帝は、敦明親王を東宮にするという条件で譲位すると。
長和五(1016)年 後一条天皇の即位式。
道長は、後一条天皇の摂政。
「我が家から帝が出るなんて」ある夜、穆子は娘の倫子に、一族から帝が出たことを喜んでいます。
「道長様は大当たりだったわ」
穆子、何歳なのでしょう。ひ孫が生まれるまで生きているというのは、相当長寿ですね。そういえば、倫子も長生きだったとか。長寿家系でしょうか。
為時が、出家すると言い出します。
在宅出家のようです。
賢子が言うように、何も変わらないように思いますが。
後一条天皇の御代になりました。
道長の言うとおりに答える後一条天皇。
そりゃそうです。
道長は、公任から、「左大臣をやめろ。」と言われます。
道長がまひろのところへ。
「摂政と左大臣を辞そうと思う。」「摂政まで上っても、俺がやっておっては、世の中は、何も変わらぬ。」
「頼通様に、あなたの想いは、伝わっておりますの?」「たった一つの物語でさえ、書き手の想うことは、伝わりにくいのですから、仕方ありません。」
意味深な会話ですね。
まひろは、政のことをどれだけ理解しているのでしょうか。
道長に頂点にいて欲しいと常に願っているのでしょうか。
そこへ、倫子がきます。
「籐式部が、男であれば、あなたの片腕になりましたでしょうに。」不適な微笑み。
倫子がまひろに頼んだのは、「殿のことを書いてくださらないかしら。」
寛仁元(1017)年
頼通が後一条天皇の摂政となりました。
頼通の摂政就任を土御門で祝っています。
威子が「兄上のお役に立ちたい。」というと、頼通は、「入内してくれまいか。」
威子は、「嫌でございます。」理由は、帝との年齢差。帝より9歳年上。
嬉子が、「私が入内します。」と言いますが、「嬉子には嬉子の役目がある。」
いつの間にか、頼通も、道長化しています。
よく考えると叔母と甥との結婚って、現代では法律違反になります。近親婚が当時、よく続いたものだと思います。
嫌がっていた威子、結局入内するのですね。
家系図を振り返っていませんが、二人の間に子供が生まれるのでしょうか。
三条天皇危篤。
臨終の場にいるのは、娍子と敦明親王のみ。
前帝にしては、少なすぎませんか。
42歳で世を去ります。
凄く悲しい人生だったように思います。
敦明親王は東宮を降り、敦良親王が東宮。
こうなることは、道長にとっては、予定通りだったのでしょう。
一年後
彰子は太皇太后。妍子は皇太后。威子は中宮。
三つの后を道長の娘・三人が占めます。
これも、倫子が健康で、多くの子どもたちを生んでくれたおかげでしょう。
威子が中宮となったことを祝う宴が土御門にて開催。
妍子は「父上と兄上以外、めでたいと思っておる者はいない」とまで言い切りました。的を射る発言だと思います。
男性のために、女性が犠牲になるという時代です。
道長は、あの有名な歌を詠みます。
歴史の時間に必ず出てくる歌です。
藤原家全盛時代を表す歌です。
ただ、平家ではありませんが、「盛者必衰の理をあらはす」ですね。
ドラマで、どこまで描くのか不明です。藤原家全盛のままで、終わるのか、それとも。