今日はお昼に鍼師さんところへ行き、午後からプリキュアの劇場版映画を見てきました。
かなり心身共にリフレッシュした気分のところで、例の神戸・須磨の小学校の事件に関する昨日、今日の神戸新聞の記事をまとめて読みました。「緊急報告」というかたちで出された以下の2つの記事です。
ちなみに、記事タイトルに学校名が入っていますが、不必要な反応をネット上で引き起こして学校を混乱させたくありません。なので、私のブログでは記事のタイトルを省略します。
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201910/0012818278.shtml (金曜日)
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201910/0012821396.shtml (土曜日)
まず、神戸新聞は地元紙ということもあって、精力的にこの件を取材していますね。その点はたいへんありがたいです。まずは率直に、お礼を申し上げます。
また、この2つの記事+別の記事をあわせて読めば、たとえば子どもや保護者の様子、他校の教職員や管理職等々の動き、市長の発信した提案に対する市教委側の反応等々、神戸新聞ができるだけ多面的に情報を集め、この問題を多様な切り口から考えようとし始めていることは、私にも伝わってきました。ようやく地元紙として冷静さを取り戻しつつあるな…と、正直、ほっとしました。
その一方で、この「緊急報告」を読んであらためて思ったのは、「おそらく神戸市長側の認識って、この記事のような枠組みでものを考えて議論を行い、「神戸方式」つぶせ、「校長の発言権抑制」という流れを考えているんだろうな」ということですね。
ただ、うまいぐあいに神戸新聞が金曜、土曜と2日続きに記事を分けてくれたおかげで、そういう議論の枠組みのおかしさに私、逆に気付いてしまいました。
というのも、たとえば、金曜日の記事の方に現れている諸問題。
たしかに加害教員の傍若無人な振る舞いが長期にわたって継続し、被害教員を苦しめたことは許しがたい。また、校長らの管理職が被害教員へのサポートも、加害教員の行為を止めることも適切にできなかったことも、あらためていうまでもなく、問題視しなければいけないでしょう。
しかしながら、この金曜日の記事の方に現れた諸問題は、私の立場からすると、教職員間の人間関係のがよくないところでは「起きてほしくないけど、起きることが十分にありうる」のではないかと思われることです。
それこそ、土曜日の記事の方では、当該の学校が「人権教育」の研究指定を受けて、その関連教員が「神戸方式」に即して、校長の要望で当該の学校に集められたという経過が綴られているのですが・・・。
でも、たとえば、同じ神戸の学校でも、他の研究指定を受けた学校のなかには、特に人間関係面で問題が起きていないところもあるかと思います。あるいは、校長の要望で教職員が集められた学校でも、かえって円滑に、校内の雰囲気がよくなっている学校もあるかもしれませんね。そういう「神戸方式」であっても「うまくいってる学校」との対比抜きに、当該の学校の抱えていた課題が本当に見えてくるのかどうなのか・・・。
また、校長の要望ではないかたちで教員が集められた学校であっても、その学校のなかで校長の「お気に入り」とそうでない教員とに派閥みたいなものが形成され、そのあいだでもめ事が起こり、特定の教員に何か「いじめ」が起こることも、十分に考えられます。そういう「他の地域の学校」で起きている教員間の紛争(特に「いじめ」)のケースと比較することなしに、はたして「神戸方式」や当該の学校の抱えていた課題が見えてくるのかどうか・・・。
少なくとも、教育学的な視点で教職員人事や、教職員間の校内の人間関係のあり方を問題にするのであれば、以上のような検討課題が記事からは見えてくるんですよね。やはり法的な観点だけでなく、教育学的、さらにその時々の教職員ひとりひとりの心理がどういう状態だったのか…という点でいえば、心理学的な観点からの調査・検証作業も必要不可欠です。
また、少なくとも私には、今はこういう教委職員間の人間関係等々に関する検討課題を地道に詰めていく作業なしに、教職員人事に対する「神戸方式」と呼ばれるスタイル(校長の意向が大きく反映するしくみ)をやり玉にあげるかたちで、先に「ここが問題だ、ここが答えだ」という議論を、マスコミ経由で誰かが作ろうとしているような印象を受けるんですよね。
そしておそらく、いま、神戸市長サイドから提案されている諸改革の内容も、このような「先に答えありき」のようなかたち、つまり「加害教員憎し」と「校長の人事権(=神戸方式)こそ諸悪の元凶」みたいな認識を前提にして、「そこをぶった切るような改革をやるべし」という観点ですすめられているように思われてなりません。
また、そういう改革を「コンプライアンス」とか「ガバナンス」改革とか呼んで、「法的なつじつまさえあえば、それでいい」と言って、無理やりにでもやろうとしている…。市長側がこういう改革方法をとったら、市教委や学校関係者の間から疑問の声があがってくるのも、無理もないかな、と思います。
ましてや、こういう教職員間の人間関係のなかで起きた問題に対して、木曜日の市長発表にあった「博物館や図書館、美術館などの社会教育部門を市教委から首長部局へ移す」という提案は、「まったくもって、無関係」「呆れた話」というしかありません。
ということで、やっぱりこの神戸新聞の2日間の「緊急報告」記事を読んでも、私としては「神戸市長がやろうとしていることは、相当、無理があるんじゃないか?」としか思えないのが実情です。
なお、上記のことを指摘した上で、なのですが。
やはり金曜日の「緊急報告」記事にもあるとおり、相当、当該の学校に通う子どもたちに動揺が起きています。その子どもたちのメンタルなケアは、当該の学校の教育活動の再建、教職員に対する子どもたちの信頼回復とともに行っていく必要があります。また、そのためにも、保護者や地域住民への謝罪やあらためての協力要請などを行っていくとともに、子どもや保護者・地域住民の要望などを十分にくみ取っての学校再建計画づくりが必要になると思います。このことについて、まだ市教委が十分に動けてない印象がやはりぬぐえません。ここにもっと、市教委は力を注がなければいけませんね。
と同時に、「人権教育」の研究指定校でこういう問題が起きたということ。そのことをやはり重く見なければいけません。理論上は理科教育でも国語教育でも、生活指導でも、他の研究指定校でも起きるかもしれないことではあります。ですが、子どもたちに「いじめはよくない」「差別はダメだ」ということを学んでもらう、そのための取り組みを研究しようとしてきた教職員集団で、こういうことを起こしてしまう。それはやはり、私の立場からも「許せない」です。やはり、加害教員は自らの行為に対して真摯に反省し、被害にあった教員や当該の学校の子どもや保護者、地域住民、そして他の教職員に対して、謝罪していかなければいけません。そのことは、私もこの場を借りて、指摘しておきたいと思います。
でも、その一方で、この学校の教職員集団の謝罪と反省、出直し、さらには神戸市教委や神戸市の他の学校の教職員たちの反省と出直し、そして将来の信頼回復のためには、誰かがやはり、市教委職員や各校の教職員(当該の学校を含む)と苦難をともにして、「いっしょに茨の道を数年間歩む」覚悟を決めなければいけません。私にどれだけのことができるかわかりませんが、何か、お手伝いできる機会があれば、私なりに「いっしょに茨の道を数年間歩む」こともしてかなければいけないと、今回の「緊急報告」記事を読んであらためて思いました。
最後にひとこと。「本当はね、現場の教職員や市教委職員とともに『いっしょに茨の道を数年間歩む』覚悟を決めるのは、市教委幹部、教育長と教育委員、そして市長と市議たちなんですけどね」と。「一日も早く、あなたたちが覚悟を決めてください」と、この場をお借りして伝えておきます。