いま、例の神戸市須磨区の学校で起きた教職員間「いじめ」の問題を、こんな感じで、約35年くらいの歴史のなかに位置付けて考えてみます。以下に書く内容は2日くらい前にフェイスブックに書いたことですが、文章の内容に手を加えて、こちらにも書きこみます。
まず、1980年代の臨教審以来約35年、主要な日本の教育改革の前には必ずといっていいほど、たとえばいじめ自死や青少年非行・重大犯罪などの「惨事」がマスメディアを通じて広く語られ、それに便乗するかのように改革が行われてきました。
それこそ…。
・1980年代の臨教審の頃=東京都中野区でのいじめ自死事件、アイドル歌手の自死、校内暴力等々。(たとえばいじめ対策として「徳育の強化」「教育相談体制の充実」「警察等の関係機関との連携」などが言われ始めたのも、この頃です)。
・1990年代半ば~後半の中教審「心の教育」答申の頃=中学生いじめ自死、援助交際、神戸市須磨区の連続児童殺傷事件等々。(少年の重大事件を契機に、少年法改正(厳罰化傾向)が強まったのもこの時期ですね。また、神戸は阪神淡路大震災の復興の途上だったこと。そのこともお忘れなく。そういえばスクールカウンセラー制度の導入もこの頃で、被災した子どものこころのケアなる言葉が流行したのもこの時期です。深刻な虐待ケースが報道され、児童虐待防止法制定に向けて動き出したのも、たしかこの時期ではないかと…)
・2000年代後半の教育再生会議+教育基本法改正の頃=小中学生のいじめ自死等々。(このときも、教育再生会議で、いじめ対応に問題があった教職員への懲戒処分に関する提案がありました。また、この頃からスクールソーシャルワーカーを各地で導入する動きもはじまりましたね)
・2012年の年末以後の教育再生実行会議の動き=大津中2いじめ自死事件、桜宮高校事件等々。(この頃から教育行政に関する首長の権限が強化されました。また、今度は学校に入る弁護士=スクールロイヤーについての議論もはじまりましたね)
ざっと、こんな感じです。
マスメディアの報道を通じて子どもや若者が亡くなるような悲しい出来事に人々が落ち込んだり、あるいは重大犯罪の発生に対して社会全体が「こんなこと許してなるものか!」という怒りの声に満ちて、人々が冷静な判断力を失っている間に、さまざまな諸改革をさっと導入して、通してしまう…。
私はこれを「惨事便乗型」教育改革と呼んできました。
もしかしたら、これは教育版のショック・ドクトリンと言っていいかもしれません。
どんな教育改革も、それを支持する人々の声がなければ、政府としても導入することはできません。
なので、子どもや若者が亡くなるような悲惨な出来事が起きたとき、マスメディアの報道などを通じて「こんなこと許してなるものか!」をいう世論が喚起される。そのときに、それを「追い風」のようにして、さまざまな教育改革をやってしまおう…という思惑を政府関係者が持ったとしても、私としては不思議ではありません。いわば、人々の「負の感情」を自らの施策への「支持」として「動員」する…ということ。政府サイドにそういうことを思いつく人々がいても、まあ、無理はないだろう…ということです。
また、実際に何か改善策を打とうとする姿勢を見せなければ、「こんなこと許してなるものか!」と煽られた世論は、今度は矢のようにつきささるかたちで、文部科学省などの政府関係者のところに向かいます。だからこそ、「何か手を打たなければ…」と、政府関係者が焦って動こうとすることも、私としては不思議ではありません。
ただ、問題は、人びとの「負の感情」を動員し、「惨事便乗型」教育改革として出されたさまざまな改革提案と、それにもとづいて行われた政策的・実践的な取り組みが、はたして本当に「効果的」なものだったのか、ということ。もしかしたら、この約35年間、「惨事便乗型」教育改革をやりたくなったら、その都度一度立ち止まって、自分の「負の感情」を見つめ直して、じっくりと何が必要なとりくみかを検証したほうがよかったのではないか、ということです。そして今も、そういう時期なのかもしれないのです。
それこそ、「惨事便乗型」の教育改革や、教育版のショック・ドクトリンで、日本の公教育の何がよくなったのでしょうか? それでよくなっていたら、今ごろこんな状況ではないなぁって思ったりもします。むしろ、いじくればいじくるほど悪くなっていった約35年かもしれません。
なので、もうそろそろ、臨教審以来の約35年の「総括」をする時期だなあって、あらためて最近、思うようになりました。
また、ここから先、何か子どもや若者が亡くなるような悲惨な出来事があって、マスメディアの報道を通じて「こんなこと許してなるものか!」と世論が煽られたときほど、冷静な調査・検証をしてほしいと思っています。
当然ですが、これは今回の神戸での一件のように、教職員が被害を受けるような悲惨な出来事に対しても同様です。
ちなみに「教育版ショック・ドクトリン」や「惨事便乗型」教育改革を大阪でやったら…。学テ順位で「なんだこのざまぁ」というあの知事や、桜宮高校事件でのあの市長(=知事と同一人物)のような動きになるのかと思います。
また、大津中2いじめ自死事件から「いじめ防止対策推進法」をつくってきたあの流れも、「教育版ショック・ドクトリン」や「惨事便乗型」教育改革といってよいかもしれません。
そして、その「教育版ショック・ドクトリン」や「惨事便乗型」教育改革を、今度は神戸で実験的にやろうとしているのかもしれませんね。
たとえば、政令市で教員給与費負担などが重くなってきたところでは、なんらかの理由で行政側が「信賞必罰」みたいなことを言って、ある教員を優遇し、ある教員の給与を下げたり、首切りをしたりする。そういうことをやりたいのではないかと。その「信賞必罰」システム導入にチャレンジテストの結果をもってくれば大阪で、いじめ対応をもってくれば神戸で…ということなのかもしれません。
もしもこれから、ある政治勢力が神戸で「首長主導の教育改革」なるものをやりたがる発言をし始めたら…。おそらく、今回は子どもではなく教職員が被害を受けたケースですが、この教職員間「いじめ」という「惨事」に便乗して、何か「信賞必罰」的な教員の処遇を導入するとか、そういうことを狙っているのではないか…と思ったほうがいいように、少なくとも私は感じました。
なお、この「教育版ショック・ドクトリン」や「惨事便乗型」教育改革のような政治的策動に対して、たとえば「教育(学校)は病んでいる」的な議論(教育病理論)や「オルタナティブな教育(学校を)」的な議論は、その政治的策動を直接・間接的にアシストすることはあっても、この策動そのものを批判的に捉えて対抗することはむずかしいでしょうね。
むしろ「教育病理論」や「オルタナティブな教育(学校)を」的な議論を部分的にうまくとりこんで、自らの支持基盤のひとつに組み込むように、「教育版ショック・ドクトリン」や「惨事便乗型」教育改革は動いてくると予想されます。なにしろ「学校はこのままではダメだ…」という感情を、この「教育病理論」も「オルタナティブな教育(学校)を」的な議論も、部分的には共有していますので。
そして、この「惨事便乗型」教育改革や「教育版ショック・ドクトリン」を批判的に捉えて対抗してためにまず必要なことは、「冷静になること」です。
どうしてもマスメディアの報道に触れると、怒りを中心とした「負の感情」に自分がまきこまれ、煽られてしまうことになります。
でも、人々の「負の感情の動員」こそが、この「惨事便乗型」教育改革や「教育版ショック・ドクトリン」のひとつの特徴です。
その動員された「負の感情」で何かがマヒしている間に、本来の問題とはまったく関係のない政策が導入されたり、やらなくてもいい余計な教育改革が行われる恐れが高いわけです。
だから、その自分のなかに芽生えた「負の感情」自体を適切にコントロールして、その落ち着きどころをどこに持って行くかを考えていくところから、「惨事便乗型」教育改革の動きにまきこまれない自分をつくり…。そのまきこまれない自分の目でもう一度、課題を整理し直すということが先決になります。
先ほど<「学校はこのままではダメだ…」という感情を、この「教育病理論」も「オルタナティブな教育(学校)を」的な議論も、部分的には共有しています>と書きましたが、こうした議論を続けてきた人々は、その部分的に共有している部分から、「負の感情」がとても浸透しやすい状態にある…とも考えられます。
以上で、ひとまずこの内容での記事、終わります。