今日、私が読んでいた本のなかに、次のような言葉がでてきた。
「諸個人がバラバラに切り離される結果として、孤立して、また孤立しているがゆえに無力感に襲われて、それがまた“場”の形成を難しくし、モノを言いにくくしている。社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事なんだと思うんです。」(湯浅誠・河添誠編『「生きづらさ」の臨界へ “溜め”のある社会へ』(旬報社、2008年)、p.178)
今、大阪市内のもと青少年会館(もと青館)を使って、例えば子ども会活動をやってみたり、あるいは若者たちの学習サークルだとか、識字教室、文化活動やスポーツ活動のサークルづくりなどをやっている。
そのような営みは、まずは各地区で孤立しがちな子どもや若者、保護者、高齢者や地区住民などを「つなぐ」こと、その人たちが安心して思うことを言い、「似たようなことを感じている人が、自分以外にもいたのだ」と感じられること自体に、大きな意味があると見ていいのではないだろうか。
もちろん、その場を通して培った人間関係のなかから、「みんなそう思ってるのなら、いっぺん、このことをオモテに出して、意見として出していこうや」という形で、何らかの社会的な要求をかかげた運動が創出できるのなら、それはそれでよい。
また、そこまで至らなくても、「とにかく、ひとりぼっちになって、バラバラになって、社会のさまざまなプレッシャーのなかで、ひとりひとりがつぶれていく」ということを回避できるのであれば、それだけでも大きなメリットがあるのではないだろうか。
だからこそ、少人数でもいいから、例えばいっしょに遊んだり、本を読んだり、子どもに読み聞かせをしたり、文字の学習をしたり、太鼓をたたいたり陶器をつくったり、バスケットボールやドッチボールをしたり・・・・。そんな活動が長期間にわたって続けられ、その活動をしているサークルどうしが縦横ナナメにつながりあうことができれば、子どもや若者、地域住民の社会教育や文化活動などが軸になって、今の社会情勢に対する「抵抗」の動きがつくれるのではないか、と思う。
だからこそ、今の社会情勢の流れを推し進めたい側にとっては、社会教育や文化活動のための公的施設は「うっとおしい」のかもしれない。それだけに、社会教育や文化活動のための公的施設を大事にしていく営みは、今は、それ自体が社会の動きへの「抵抗」といってよいのではないだろうか。
また、この本で編者らと対談している本田由紀さん(東大教員、教育社会学専攻)の次のコメントも、大阪市や大阪府下で今、すすめられようとしている「キャリア教育」なるものへの鋭い批判だな、と思う。
「最近政策的に推進されている『キャリア教育』と言われるものは、『額に汗して働くことの大切さを知ろう』とか『自分のやりたいことを見つけよう』とか『仕事を通じて社会に貢献しよう』とか、道徳教育のような性質が強く、実際に労働の現場で身を守るすべとなる具体的で実践的な知識やスキル、ノウハウを与えるものではありません。労働者をエンパワーするというよりも、総じて雇う側にとって都合のいい学校教育になってしまっている場合がほとんどなのです。」(同上、p.54~55)
また、編者のひとり・河添誠さんは、学校教育での進路指導等について、次のようなことを述べていた。これも、私には納得の意見である。
「階層化された労働市場のなかで、日々、不当な解雇、違法な賃下げは起こり続けている。『不器用な若者』が職場のトラブルに遭遇したとき、それに対応できる能力こそを育てる必要がある。それは、まず、労働者の権利の知識―雇用契約書の読み方、社会保険・雇用保険の知識など。そして、違法行為があったときに、どう問題解決に向かうのかについての知識―である。それをできる限り具体的に身につけることが決定的に重要である。」(同上、p.26)
ところで、私は今年の9月、このブログ上で、大阪市教委の出した教育改革プログラム「重点行動プラン2008-2011(案)」の「キャリア教育」に関する項目について、次のような問題点の指摘をしておいた。そのことと、今回読んだ本のなかでの本田由紀さんや河添誠さんのコメントがかなり似ているので、うれしかった。
<今年9月に「重点行動プラン」に対して述べたこと>
(12)「キャリア教育の推進」についても、これが職場体験・見学や、企業派遣の外部講師による講演程度で終わるのであれば、今までやってきたのとほぼ同じであり、これ以上、あまり効果は期待できないように思う。
むしろ今、職業観や勤労観の育成にとってほんとうに必要なのは、働く人々の持つ諸権利についての学習であったり、就労に関する法的手続き等に関する学習ではないのだろうか。
そのことは社会保障に関する権利学習や、政治・経済のしくみに関する学習、つまり、社会科や公民科(高校)の学習、総合的学習の充実ということともつながるものであると思うのだが。
今、私が抱いているのととてもよく似たような疑問や感想などを、遠く離れた場所で、生活保護の問題や非正規労働者の雇用の問題、若者の仕事の問題などに取り組む人たちが、実際にこうして文字に示していてくれるのは、とてもうれしい。
と同時に、大阪の人権教育(あるいは解放教育でもいいのだが)や解放運動を含む人権関係のさまざまな運動体の筋から、目の前の子どもや若者たちの現状などをふまえて、このような話がどれだけ今、出せるのか? 今、そこが問われているような気がしてならない。
また、もうすでに運動体筋や人権教育の筋からの情報発信が行われているとしたなkらば、それがどれだけの社会的な影響力をもって、じわじわとでもいいから、関西圏で地道に活動を続けている人たちの間に、あるいはそれ以外の人たちの間に、少しずつでも浸透していくことができるのか。そこが今、問われているような気がしてならない。
いずれにせよ、今ある社会の動きや学校のあり方、社会教育や文化活動に対する行政施策のあり方などに対して、私たちが批判的な意識を研ぎ澄ませるための「学習」のありようや、何かあるときの異議申し立ての動きができるような「拠点」、あるいは、そんな私たちが自らを保つための「居場所」をどのようにして構築するのかということ。そのこと自体に目を向けないような、そんな社会運動のスタイルでは、もはやこの先、状況のなかでふんばることすらできないのではないか、と思った。そんな一冊に、この冬休み、出会ったような気がする。
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