つれづれ日記

~認知症に備えて~
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天狗党西上勢終焉の地訪問(2日目)

2008-10-02 23:24:00 | わくわく学園

Blogkouunsaihaka  2日目の最初は、武田耕雲斎等墓、その隣の松原神社を訪れた。来迎寺境内で処刑された353人と途中討ち死にしたもの、病死したものの墓碑計15基が建っている。墓前左手前には軍装の武田耕雲斎の像が立ち、スピーカから説明が流れる。墓碑の後はこんもりとした塚になっている。

Blogmatsubarajinjyahonden Blognishingura  その道路を隔て西側向かいには、処刑者・戦死者・病死者411名を祀る松原神社が鎮座。境内奥には、彼らが収容された16棟のニシン蔵のうち1棟が移築されていて水戸烈士記念館となっている(内部は天狗党に関わる資料を展示)。 

Blogjinguji  1時間強の見学の後R27から三方五湖レインボーラインを通って梅の里西田の「梅の里会館」に立ち寄り、小浜市の霊応山神宮寺(天台宗)を訪問。ここは、奈良二月堂へお水送りの寺で、天狗党とは特に関係はない。本堂(天文22年(1553)再建)、北側仁王門(鎌倉時代末)の建物が国指定重文、その他の重文をもつ名刹である。住職の話はユニークであった。鈴2ヶを買った(1,000円)。

 この後、延宝山萬徳寺(高野山真言宗)を訪ねた。天狗党とは関係ない。庭園が国指定の名勝というが、作者不詳とか。庭園も季節柄か(新緑・紅葉時期が良いという)、江戸初期の作庭というだけで大したようには感じなかった。住職も今一の人だった。小生は、この時期訪れる価値はないと思った。

Blogobamajyoshi  旅の駅「松風」で昼食。以降、若狭の語り部ボランティアの方の説明で鯖街道基点、梅田雲濱生誕地・像、元正天皇の勅願により行基が創建した鳳聚山羽賀寺(高野山真言宗。宝徳2年(1450)以前は天台宗。現本堂は文安4年(1447)奥州の安倍(安藤)康季の再建)、小浜城址、若狭フィッシャーマンズワーフに立ち寄り、今夜の宿「せくみ屋」へ到着。


天狗党終焉の地訪問

2008-10-01 23:01:00 | わくわく学園

 平成20年10月1日から3日の3日間、わくわく学園歴史課外講座である、「天狗党の跡を訪ねる敦賀・小浜の旅」に参加した。これは、平成18年の「水戸諸生派の跡を訪ねる新潟の旅」、平成19年の「天狗党の跡を訪ねる群馬・長野の旅」に続く課外講座である。

Bloghonjinato Bloghonjinnaibu  10月1日、7:48水戸駅発フレッシュひたちで東京駅集合。10:33東京駅発ひかり409号に乗車。曇天のため富士山は拝めず、車中で配られたソボロ弁当を食べ、12:49米原駅到着。出迎えていたケイカン交通バス2台に分乗。途中トイレ休憩と土産のため「小牧かまぼこ」に寄り、葉原(はんばら)村から最初の訪問場所は元治元年(1864)12月11日から宿営した武田耕雲斎本陣跡(敦賀市新保)である。北陸街道(現在は幅3m程度だが、当時は半分ほどだった由)の傍にある。下段の間6畳と上段の間8畳の書院造である。ここで、降伏について、加賀藩との使者と数度に亘る会談を行った。

Blogkakocho  次は、天狗党に従って、ここまで来た15歳以下11人の少年を引き取った勝載山永厳寺(ようごんじ)を訪れた。金ヶ崎トンネルの手前にある曹洞宗の寺である。この寺の当時の32代(現住職はこう言っていたが、資料は33代となっていた)住職龍道、処刑者全員に戒名を贈り、回向簿にしたためた。これら少年の髪や身に付けていたもの、処刑者の大位牌などは保存展示されていたが、昭和20年(1945)7月12日、先の大戦により消失して回向簿ともども何も残っていない(回向簿は現在、復元されている)。

 次は、気比神宮。ここの大鳥居は春日大社厳島神社の大鳥居とともに木造日本3大鳥居で、国の重要文化財、境内には松尾芭蕉の像(台石に、「月清し遊行のもてる砂の上」)、近くに5句の句碑があった。「名月や北国日和定めなき」、「波の間や小貝にまじる萩の塵」。天狗党との係わり合いになるものは、見つけることができなかった。

 次は、本妙寺本勝寺長遠寺。これらは、天狗党が降伏後、武装解除され12月23日から25日に亘り収容された場所である。中には入らず、外から建物を見ただけである。いずれも現在の規模は小さい。当時の規模が不明だが、現在の規模では、823名もの天狗党を収容できる大きさではない。

 その後、再び「小牧かまぼこ」に寄り、本日の宿トンネル温泉「北国グランドホテル」に到着。