私達は、私達というものの存在意識を持っている。「場意識」とでもいえる意識である。この「場意識」と言える存在意識には、「空間性」と「時間性」とがあると言える。
「空間性」とは「広がり」、「時間性」とは「経過」であり「過程」であり「変化」でもある。この「時間性」は、「空間性」が停止し静止していないことにある。それによって常に変化が行われている。それは未完成であるがために、完成を求めてさまよっているとでもいえるだろう。
私達はこうした未完成な世界の中で、私達自身もまた完成を求めようとして生きている。基本姿勢である「幸せ」を目指してーーーーーーー。
しかし私たちが一つの事を達成して完成したとしても、それは変化して移ろい行く。そのままの状態が、いつまでも続くことがない。そこに私達の「喜怒哀楽」がある。
日木流奈さんは、その心の世界において、こうした私達の存在意識、場意識、空間性と時間性が、「存在意識として持たなくても良いのだ」と述べている。
「場意識」という存在性は、個性意識を持つ。それは自己というもの、自己の家族とか血縁とか、地域とか国家とか人種とかへと拘りになってしまう。「時間性」も、過ぎ去ってしまい、やり直すことの出来ない過去に拘り、まだ来ない未来に拘って現実をおろそかにしている。
それ故に空間性と時間性のない「今」という現実しかないのだと、日木流奈さんは語るのである。
丁度それは、テレビの瞬間の停止した一コマのように、その一コマをどのように大切に処理するかにかかっていると言う。
「今」という一点には、空間性も時間性もない。だがそれが、今の時から次の時へと連なってゆく。
茶道で言う「一期一会」が、次の「一期一会」になるならば、今の「一期一会」を正しく「一期一会」していかなければなるまい。
私達の人生は、今の「一期一会」の積み重ねによって、良くも悪くも形を作られてゆく。
「空間性」とは「広がり」、「時間性」とは「経過」であり「過程」であり「変化」でもある。この「時間性」は、「空間性」が停止し静止していないことにある。それによって常に変化が行われている。それは未完成であるがために、完成を求めてさまよっているとでもいえるだろう。
私達はこうした未完成な世界の中で、私達自身もまた完成を求めようとして生きている。基本姿勢である「幸せ」を目指してーーーーーーー。
しかし私たちが一つの事を達成して完成したとしても、それは変化して移ろい行く。そのままの状態が、いつまでも続くことがない。そこに私達の「喜怒哀楽」がある。
日木流奈さんは、その心の世界において、こうした私達の存在意識、場意識、空間性と時間性が、「存在意識として持たなくても良いのだ」と述べている。
「場意識」という存在性は、個性意識を持つ。それは自己というもの、自己の家族とか血縁とか、地域とか国家とか人種とかへと拘りになってしまう。「時間性」も、過ぎ去ってしまい、やり直すことの出来ない過去に拘り、まだ来ない未来に拘って現実をおろそかにしている。
それ故に空間性と時間性のない「今」という現実しかないのだと、日木流奈さんは語るのである。
丁度それは、テレビの瞬間の停止した一コマのように、その一コマをどのように大切に処理するかにかかっていると言う。
「今」という一点には、空間性も時間性もない。だがそれが、今の時から次の時へと連なってゆく。
茶道で言う「一期一会」が、次の「一期一会」になるならば、今の「一期一会」を正しく「一期一会」していかなければなるまい。
私達の人生は、今の「一期一会」の積み重ねによって、良くも悪くも形を作られてゆく。