私達が「生きていく」ということは、悩ましいものである。
第一「こうなりたい、ああなりたい」というように、思い通りにならない。それが出来ればいいのだけれども、一つとして出来るものはない。出来たとしても、完全性がない。持続していかない。必ず変化する。場合によっては、一旦出来上がったものも、壊れてゆく。
それが私たちの「悩み」となり、「苦しみ」となる。それ故に釈尊、お釈迦様は、その実体が「四苦八苦」であると見詰められた。
「四苦八苦とは、
四苦は、通常、生老病死を指します。生まれる、老いる、病む、死ぬという、人間ならば誰でも避けて通れない宿を苦と捉えているわけです。
釈迦は更に、 この四苦に4つの苦が加わると分析し「四苦八苦」と定義してます。これが、愛別離苦(愛する人ともいつかは離別しなければならない)・怨憎会苦 (イヤな奴や嫌いな人でも会わなくてはならない)・求不得苦 (欲しいものが得られない)・五陰情苦 (食欲や性欲が過ぎて自制が利かず心が乱れる) です。
一般に初めの「四苦」は自己、自分に関わりあるものと捉えられ、後の「八苦の四苦」は他との関わりと見なされています。
だが初めの「四苦」も、自分が自分を思うように出来ないことから起こるものと見なすと、この「四苦」も、自己とは離れた他との関わりになってしまっています。そして悩み、苦しんでいる。
普通私達は、その悩みと苦しみを避けようとしてしまっている。
釈尊は、こうしたことを解決するには、「自我を捨てて無我になることだ」と説かれました。だが俗人であり、煩悩の燃え盛る私達には、これは理想のまた理想でしかないでしょう。
こうした俗物な私達の救いのために、親鸞聖人が説かれた教えというものがあります。
この教えは、受け取る人によっては間違えやすい教えですが、正しい受け取り方をするというならば、自分と関わりあるものを丁度「車」に見立てて上手に運転しなさいと言うことでしょう。
何事も使い方次第で良くも悪くもなります。殊に自転車の乗る場合など、ハンドル裁きばかりではなく、自然とバランスが取れるようにならなければなりません。この「自然とバランスを取る」という動作には、自我が取り払われた状態になっていす。
そしてそれは、自分と言う車もまた、バランスよく上手に運転していかなければならないという事実があります。
同様に夫婦間においても、親子間においても、家族間や社会や国家間においても、相手という車を上手にバランスを取って運転できるようにしていかなければならないでしょう。こちらだけでなく、相手の方もという風に、お互いがそういう風に勤めてゆかないことには、言葉の争いから暴力行為になってしまいます。
私達が悩みを解決したいならば、苦しみを解決したいならば、まず自分と言う車を上手に運転することから始めなさいというのが、親鸞聖人の教えでしょう。
第一「こうなりたい、ああなりたい」というように、思い通りにならない。それが出来ればいいのだけれども、一つとして出来るものはない。出来たとしても、完全性がない。持続していかない。必ず変化する。場合によっては、一旦出来上がったものも、壊れてゆく。
それが私たちの「悩み」となり、「苦しみ」となる。それ故に釈尊、お釈迦様は、その実体が「四苦八苦」であると見詰められた。
「四苦八苦とは、
四苦は、通常、生老病死を指します。生まれる、老いる、病む、死ぬという、人間ならば誰でも避けて通れない宿を苦と捉えているわけです。
釈迦は更に、 この四苦に4つの苦が加わると分析し「四苦八苦」と定義してます。これが、愛別離苦(愛する人ともいつかは離別しなければならない)・怨憎会苦 (イヤな奴や嫌いな人でも会わなくてはならない)・求不得苦 (欲しいものが得られない)・五陰情苦 (食欲や性欲が過ぎて自制が利かず心が乱れる) です。
一般に初めの「四苦」は自己、自分に関わりあるものと捉えられ、後の「八苦の四苦」は他との関わりと見なされています。
だが初めの「四苦」も、自分が自分を思うように出来ないことから起こるものと見なすと、この「四苦」も、自己とは離れた他との関わりになってしまっています。そして悩み、苦しんでいる。
普通私達は、その悩みと苦しみを避けようとしてしまっている。
釈尊は、こうしたことを解決するには、「自我を捨てて無我になることだ」と説かれました。だが俗人であり、煩悩の燃え盛る私達には、これは理想のまた理想でしかないでしょう。
こうした俗物な私達の救いのために、親鸞聖人が説かれた教えというものがあります。
この教えは、受け取る人によっては間違えやすい教えですが、正しい受け取り方をするというならば、自分と関わりあるものを丁度「車」に見立てて上手に運転しなさいと言うことでしょう。
何事も使い方次第で良くも悪くもなります。殊に自転車の乗る場合など、ハンドル裁きばかりではなく、自然とバランスが取れるようにならなければなりません。この「自然とバランスを取る」という動作には、自我が取り払われた状態になっていす。
そしてそれは、自分と言う車もまた、バランスよく上手に運転していかなければならないという事実があります。
同様に夫婦間においても、親子間においても、家族間や社会や国家間においても、相手という車を上手にバランスを取って運転できるようにしていかなければならないでしょう。こちらだけでなく、相手の方もという風に、お互いがそういう風に勤めてゆかないことには、言葉の争いから暴力行為になってしまいます。
私達が悩みを解決したいならば、苦しみを解決したいならば、まず自分と言う車を上手に運転することから始めなさいというのが、親鸞聖人の教えでしょう。