「人は何故生きる」・・・・・・。
それは重い命題である。簡単に、答えを出せそうに無い。
しかし私達は、この命題に対して、何らかの答えを出して生きていかなければならない。「何となく」ダラダラと生きているのでもなく、また藪から棒に極端に生きるでもなく、与えられた「生命」と向き合って生きていくべき必要がある。それは意識しようとするまいとに関わらずに、私達の上に圧し掛かっている。
ではこの「人は何故生きる」ということについて、どのような答えを出せばよいのだろうか。それはまた「人は何のために生きるのか」という問いかけへの返答でもある。
ここで私達は、私達の存在感に目を当ててみたい。
私達は「人」として、「人間」として存在する。それは「花」が「花」として存在するがごとくに、「石」が「石」の存在するごとくに存在している。
しかし人は、「花」や「石」とは異なり、「人らしく」存在しえない。それは何故かというと、人は「精神、心」というものを持っている事による。この「精神、心」というものを持っているがために、人は「人らしく」存在する事がなかなか出来ないでいる。
よく人の事を「神の子、仏の子」という。しかし、もし確かに人が「神の子、仏の子」であるならば、その思い「精神や心」は、そしてその思いによる行い「行為」は、「神の子、仏の子」の思いや行為であるはずなのである。
だが現実には、そうではない思想や行為が横行している。
このように人が「神の子、仏の子」と言われながら「神の子、仏の子」らしくなれないのは、人が自分自身を「神の子、仏の子」らしく躾ようとしない事にある。この人が、自分で自分を「神の子、仏の子」らしく躾ようとする行為を、「信仰」といい「宗教」と言えるだろう。
普通「信仰、宗教」というと、自分の都合の良いようにしてくれるものと思いがちだが、そうではなく、正しい「信仰、宗教」とは「神であっても仏であっても、その神や仏を正しく神として仏として教える」もの、そういうものでなければならない。
「人は何故生きる」という事も、人が自分自身で、自分を人として導き教えるのが、人の生き方なのだと言える。