「清き一票」の中でちょっと述べたが、一般的なこととして私たちは、「生存権」を権利として持っているという慣行になり、それを行使しようとしている。しかしよく考えればわかると思うが、私たちの「生存」は、自分で自分の生存を決められるものではない。
「自分で自分の生存を決められない」以上、私たちが「生存権」を主張するということは、意味を持たない。矛盾している。
意味を持たず、矛盾しているところから、私たちの「迷い」があり「混乱」がある。
私たちの「生」の始まり、すなわち誕生に際しても、自分の選んだものでも、自分が望んだものでもない。これはまた、両親が望んだものではあっても、両親が望むがままに誕生し得ない場合があり、こうなると私たちの「生」という誕生は、自然の手に、言うならば「神」の手にゆだねられていることになる。
これはまた、どんなに長生きしたい、「無量長寿」を願っても、それもまた自分で自分を思い通りに出来えはし得ない。
「生」があったなら、必ず向かい合わなければならない「死」がある。この「死」というものの存在を見つめた上での「生」なれば、どうして「生存権」を権利として振り回されるだろう。
だが悲しくも情けないことに、私たち人間は、「生」が無数の「生」となるものの中から選ばれたものであり、そしてその「生」は、いつかは終わりを迎える「死」を待たなければならない間の「生」であるという認識を持たない。
持たないどころか、ただこの「生」が持続されるものとしか思っていない。
そうした「生の持続感」から、「生存権」を持つ。それが私たちが言う「生存権」という、権利である。
今も言ったように、「生」には持続が無い。必ず終結を迎える。
終結を迎える「生」ならば、「生存」というものは、一時的なものである。この一時的なものの中で、私たちが生きていくのが「人生」である。
こうしてみると、私たちが持たなければならない「生存権」とは、この一時的な中のもの、それも「ただ今のこの一瞬」を、「どのように生きるか」が「生存権」になる。
この「どのように生きるか」ということも、ただ「生きる」とか、「気ままに生きる」ということではなしに、「人間らしく生きる」ということにこそ、人間らしい「生存権」を持ったものになる。
「人間らしく生きる」ということの「生存権」ということは、別の言い方をするならば、自分を「人間らしく生きる」という方向に引っ張っていくということが、真摯な「生存権」である。
こうした、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」を教えるものを、「宗教、信仰」という。
「自分で自分の生存を決められない」以上、私たちが「生存権」を主張するということは、意味を持たない。矛盾している。
意味を持たず、矛盾しているところから、私たちの「迷い」があり「混乱」がある。
私たちの「生」の始まり、すなわち誕生に際しても、自分の選んだものでも、自分が望んだものでもない。これはまた、両親が望んだものではあっても、両親が望むがままに誕生し得ない場合があり、こうなると私たちの「生」という誕生は、自然の手に、言うならば「神」の手にゆだねられていることになる。
これはまた、どんなに長生きしたい、「無量長寿」を願っても、それもまた自分で自分を思い通りに出来えはし得ない。
「生」があったなら、必ず向かい合わなければならない「死」がある。この「死」というものの存在を見つめた上での「生」なれば、どうして「生存権」を権利として振り回されるだろう。
だが悲しくも情けないことに、私たち人間は、「生」が無数の「生」となるものの中から選ばれたものであり、そしてその「生」は、いつかは終わりを迎える「死」を待たなければならない間の「生」であるという認識を持たない。
持たないどころか、ただこの「生」が持続されるものとしか思っていない。
そうした「生の持続感」から、「生存権」を持つ。それが私たちが言う「生存権」という、権利である。
今も言ったように、「生」には持続が無い。必ず終結を迎える。
終結を迎える「生」ならば、「生存」というものは、一時的なものである。この一時的なものの中で、私たちが生きていくのが「人生」である。
こうしてみると、私たちが持たなければならない「生存権」とは、この一時的な中のもの、それも「ただ今のこの一瞬」を、「どのように生きるか」が「生存権」になる。
この「どのように生きるか」ということも、ただ「生きる」とか、「気ままに生きる」ということではなしに、「人間らしく生きる」ということにこそ、人間らしい「生存権」を持ったものになる。
「人間らしく生きる」ということの「生存権」ということは、別の言い方をするならば、自分を「人間らしく生きる」という方向に引っ張っていくということが、真摯な「生存権」である。
こうした、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」を教えるものを、「宗教、信仰」という。