明日、五月二十一日から、「裁判員制度」が開始される。
裁判員に選出された人たちは、不当な理由がない限り、裁判員として裁判の審理に立ち会わなくてはならなくなる。
今日の新聞に、
「裁判員制度は、公共心を磨く好機である」
という主旨の記事が出ていた。
これは裁判に参加し司法参加することにより、「社会、地域、政治秩序」の参加につながる「公共心を磨かれることを期待しての記事である。
だがここで言う「公共心」というは、的外れな取り違えな面がある。
そもそも「公共心」とは、辞書には、次のように出ている。
(1)社会全体に関すること。おおやけ。
(2)おおやけのものとして共有すること。
「人間の―するや衆人相共に其務む可き所を尽して/明六雑誌
一般的な考え方をすれば、こういうことが世間的な「公共心」は、なる。しかしこれは、上辺だけの、薄っぺらな、「公共心」でしかないといわなければならない。
今の私たちにとって必要な「公共心」とは、たとえば「景気拡大、経済成長」というけれども、景気拡大などがすれば廃棄物が山済みになる。ごみが出る。新製品が売れると、旧製品は、廃棄物の山になる。
こうしたものばかりでなく、食べ物の作りすぎや残り物は、トレイや割り箸、ペットボトル、紙袋と一緒に捨てられ、ごみの山が築かれてゆく。
「公共心を磨く」べきなら、こう言う「社会環境の公共心」を磨いていくことをほったらかしにしておいて、何も「裁判員参加」が公共心を磨く好機になるものではない。
もし真剣に「公共心を磨く」ことを望むなら、「余分なもを作らず、後片付けをちゃんとする」ということに徹すればよい。
それが「裁判は裁判員におんぶ」とか、「景気拡大、経済成長」と財政出動する補正予算案は、財源は「消費税増税して国民におんぶ」と甘えている。