それではここで、別段いうまでもないことだろうけれども、「引導力」について延べることにする。
「引導」という言葉は、普通「引導を渡す」とか、「引導を与える」という風に使われる。「こちらから相手」に対して、「何らかの働きかけ」をするという具合になる。
しかしこれは、正しく無い。
「引導」という言葉の正しい意味は、「相手を正しく引っ張り導く」ということにある。
それはまた、よく使われる言葉としては、「教育」という言葉、「教え育てる」という言葉に該当できる。しかし「教育」という言葉には、「引っ張る」という力強さが無い。今日の状態は、「教えっぱなし」のような、状態でしか無い。
「引導力」を発揮する場として、「船長」とか「現場監督」などが上げられる。
ところが今日では、この「引導力」を発揮すべき「船長や現場監督官」が、頼りなくなっている。
「金銭、地位、身内、上位の者」などにおもねっていて、正しく引っ張り導いていこうとする態度が貧弱になっている。
国家の国政を預かるものにも、世論調査結果に右往左往し、官僚の言に揺さぶられてブレ、決定事項は決まって先送りしている。
その結果、重要課題の未決状態が山済みされ、今度はそれをいいことに「解散総選挙」を先延ばしにする言い訳にしている。
まるで「ゴミ屋敷」のように、未決の重要課題がたまっている。
これは「国政を預かるもの」に「引導力」がなく、そして指導力がぶれている事に原因がある。
一般家庭でも、家族を「正しく引っ張り導く」船長のような役割をすべき人が、いなくなっている。
これは「男女同権」という「平等権」を定着させようとするところからきているようだ。このために「誰が船長になるか」がはっきりしていないため、家族は「バラバラな」方向を向いていく事になる。
各自が「後始末をしない」、「掃除をしない」、「手伝いをしない」などとなる。これは一家をまとめる者が、率先して行い、手本を示さない事にある。
それが「俺はこれだけのことをしているから」とか「私ばかりにさせて」と責任逃れしていては、いつまで経っても片付かない。
「引導力」とは、このように「家族や国民を引っ張り正しく導く力をさす。と同時に、それはまた、自分自身に対しても行うことでなければならない。
自分という自身を、もう一人の自分自身が「正しく引っ張り導いて」くれるものでなければならない。
「引導」という言葉は、普通「引導を渡す」とか、「引導を与える」という風に使われる。「こちらから相手」に対して、「何らかの働きかけ」をするという具合になる。
しかしこれは、正しく無い。
「引導」という言葉の正しい意味は、「相手を正しく引っ張り導く」ということにある。
それはまた、よく使われる言葉としては、「教育」という言葉、「教え育てる」という言葉に該当できる。しかし「教育」という言葉には、「引っ張る」という力強さが無い。今日の状態は、「教えっぱなし」のような、状態でしか無い。
「引導力」を発揮する場として、「船長」とか「現場監督」などが上げられる。
ところが今日では、この「引導力」を発揮すべき「船長や現場監督官」が、頼りなくなっている。
「金銭、地位、身内、上位の者」などにおもねっていて、正しく引っ張り導いていこうとする態度が貧弱になっている。
国家の国政を預かるものにも、世論調査結果に右往左往し、官僚の言に揺さぶられてブレ、決定事項は決まって先送りしている。
その結果、重要課題の未決状態が山済みされ、今度はそれをいいことに「解散総選挙」を先延ばしにする言い訳にしている。
まるで「ゴミ屋敷」のように、未決の重要課題がたまっている。
これは「国政を預かるもの」に「引導力」がなく、そして指導力がぶれている事に原因がある。
一般家庭でも、家族を「正しく引っ張り導く」船長のような役割をすべき人が、いなくなっている。
これは「男女同権」という「平等権」を定着させようとするところからきているようだ。このために「誰が船長になるか」がはっきりしていないため、家族は「バラバラな」方向を向いていく事になる。
各自が「後始末をしない」、「掃除をしない」、「手伝いをしない」などとなる。これは一家をまとめる者が、率先して行い、手本を示さない事にある。
それが「俺はこれだけのことをしているから」とか「私ばかりにさせて」と責任逃れしていては、いつまで経っても片付かない。
「引導力」とは、このように「家族や国民を引っ張り正しく導く力をさす。と同時に、それはまた、自分自身に対しても行うことでなければならない。
自分という自身を、もう一人の自分自身が「正しく引っ張り導いて」くれるものでなければならない。