今日の「豚インフルエンザ」。
また「景気拡大、経済成長」のためのとか、目指した「補正予算審議」。
こう言うものはどういうものかというと、ちょっと見方は違うが「感染と侵略」とも言える。
「豚インフルエンザ」は「感染であり侵略」を受けた事である。「景気、経済拡大成長」というものも、「不況」というものに「感染され、侵略され」ているという事ができる。
そういうことなのだが、これは何かを基準にしてそういっているわけだ。
「豚インフルエンザ」の場合は「健康」、「景気、経済」は「豊かさ」とでも基準にしているというべきか。
しかしこうした物事に基準を当てはめて、「極端」に対して騒いでいるのは、人間だけである。
例えば他の生物などには、「領土、領海、領空」という概念が無い。「健康」ということに対しても、有りのままを受け入れているし、勿論「景気、経済」なんかは概念に無い。「基準」などは作っておらず、「基準」に伴うその両極端に対しても、無関心なのである。
ところが、人間だけがそうは行かない。
私達は、今日のような社会情勢を見るならば、「景気拡大や経済成長」行為は、それがそのまま「豚インフルエンザ」感染拡大ということと「等しい」ということに気付く必要がある。「等しく、同等」なのである。
こうしたことは、最大の「補正予算成立」ということは、最大の「国債」などの借入金残高になるということに「等しい」ことは皆さん感じておられることだろうし、「消費税増税」として降りかかってくる、という「同等性」も、知っていられるだろう。
この「消費税増税」は、「景気拡大や経済成長」が出来ても、その恩恵を受けるものは一部のものでしかなく、大多数の人々は今までとそれほど変わることは無いだろう。だがそうした人々にも、「消費税」は増税される。これは「等しく」無く「同等」でなく、「不公平」になる。
こういう「不公平」になるのは、「景気拡大、経済成長」ということと、「消費税増税」ということは「等しく同等」だからなのだ。
それ以上に思わなければならないのは、私たちが「何を基準」にして「生きよう」としているかである。だが、この「基準」を設定すると、両極端が存在してしまう。両極端の存在し、その一方にのみノメリ込んでしまうのために、「迷い、もだえ、苦しみ、悲しみ」を受けなければならなくなる。
その大元ともいえるものが、「生と死」である。
私達は今生きていながら、「生」という一方だけに気を奪われている。しかし「死」もまた、私たちにとって大切な「生」の一部である。その大切な一部である「死」を、ロクスッポに見詰める事が無い。
ただいざとなって、慌てている。
ただ慌てているのは「生と死」が、「てしく同等」なものと受け止め、受け入れられないからである。
その一方では、美しい表現法を持っている母国語を、ことさら外来語のカタカナ語に置き換えてしまうという、そうした事がまた、「意思疎通」、一般的な「コミュニケーション」として扱われている。
本当に「意思疎通」出来たかどうかという事にはお構いなく、こちらの勝手に使われていて、相手の都合にはお構い無しで、ここには「等しさも同等性」も無い。
「等しく同等性」というのは、極端なものを排除すべき事のために述べた言葉であるが、釈尊は、こうした極端に偏らない心の持ち方、精神の持ち方、感覚の持ち方というものを、「中道」と名付けられている。