青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

阿呆と違う (終==沈黙の教え)

2010年05月26日 | 短歌に政治や社会

辺野古移設反対、知事に明言 社民・福島氏が沖縄訪問(朝日新聞) - goo ニュース

我々が「安全保障」しなければならないのは、「怖い」からである。
「恐れ」であり、「恐怖」である。
この「恐れや恐怖」が、「物」に対する場合と違って「人」に対する場合、「疑心暗鬼」になる。
この「疑心暗鬼」になることから、「恐れや恐怖感」は、敵対行為へと発展していく。

残念ながらこの「恐れや恐怖感」、そして「疑心暗鬼になっての敵対感」からは、いくら「ノーベル賞、文化勲章、アカデミー賞、五輪メダリスト」などの受賞者たりとも、解決し解放する事は出来ない。
いわんや母親からの「子供手当」のような献金にまみれる首相や、あやふやな「資金管理団体」の金の流れの民主党幹事長など、それだけでなく今夏の参院選で擁立させようとされる「芸能人、タレント」などの立候補者などでは、このような「恐れや恐怖感」などから来る「疑心暗鬼による敵対感」を和らげることなどは出来ないだろう。

「安全保障」というようなことと取り組むには、「理性、知性、感性」などでの取り組みは、用をなさない。いわば、「五感や六感」では、取り組みえない。


取り組み得うるのは、「霊性、不可思議性」を持ってのみでしかない。
しかし「霊性、不可思議性」とは言っても、それは「亡霊や魂」という事ではない。
「有限性も無限性もない」という事で、これは言ってみれば「科学性も文化性も持たない」という事である。
これはどういう事かというと、「宗教性」の事である。

仏教には「維摩経」という経典があり、この中に「沈黙の教え」という件がある。

この「沈黙の教え」というものが、今の我々にとって「安全保障」の要となる心を教えている。
尤もこの「沈黙の教え」には、解釈も解明も明快には答えていない。
それは、人それぞれの立場、性格、機根などによって受け取り方が異なるためである。

ちなみにこの「沈黙の教え」の底流に漂う思いは、「姿勢を糺し、行儀良くする」ことを建前としていると感ずる。
だが今日の文化文明、科学は、低俗化している。ただ「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」さを求めるだけのものになっており、それを「民主主義の平等と自由」を旗印に掲げて、思い通りに突き進もうとしている。
こうした「民主主義の平等と自由」を、「姿勢を糺して、行儀よく」したものにしていかなければなるまい。

コメント
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