天災地変は、我々を苦しませ、悲しませるためにあるのだろうか。
また天災地変ばかりでなく、我々が必ず直面しなければならない「老病死」や、「親しく愛しいものとの別れ、欲しいものは必ずしも手に入らない、厭な者憎い人と顔を合わせなければならない、何事も思うようにはならない」などは、我々が憎まれ者だからこんなことになるのだろうか。云ってみれば、神様や仏様は、我々が憎いから、こんな目に合わせているのだろうか。
神様や仏様には、理性がある。
普通この事を「慈悲」といい、また「愛」という。
神や仏さまの理性とはどういうものかというと、我々が天災地変などの苦しみや悲しみに遭遇するのか必然のことなのであって、誰もがいずれは直面しなければならない。
この必ず直面すべきことに対して、どのような事態にも「天の子、仏の子」として誇り高く耐え忍びて生きることを願うのが、神や仏さまの理性であり、それはそもそもに天災地変の理性でもある。
余談だが、キリスト教での「アーメン」とは、「あれかし」ということなのだそうだ。
他方の仏教の「南無阿弥陀仏」は、「仏の心に帰る」という。
「仏の心であれかし」となれば、宗派対立も無い。