私は、毎月一度の再診のため、病院へ行った。
同じ診療科に、一歳前後の男の子を連れた、若い母子連れがいた。
この男の子は、ダウン症だという。
おそらく若い母親は、このダウン症の男の子を、一生涯連れ添ってやらなければならないだろう。
だが若い母親の面には、何の躊躇いもわだかまりもなく、我が子に接している。
兎角我々は、「辛いこと、苦しいこと、悲しいこと」などからは避けて通ろうとする。避けようとする。
そしてそうしたことに遭遇すると、愚痴る。怨む。呪う。
このために、他の者に嫉妬する。
とてものこと、ダウン症の子を持つ若い母親のように、真向いから直視しようとはしない。
このために例えば、何のかんのと言い訳や理屈をつけて、「赤ちゃんポスト」が設置されたのをいいことに「育てられない」と言って捨て子をする。
物事との真正面からの直視がなされないことのために、先日のニュースでもあったように、国政を担う閣僚大臣が「死の街、放射能をなすりつけてやる」などという言動を言わせることになる。こういう人たちに限って「ダウ症、精神薄弱者、障害者」らを蔑視するが、彼等は間違ってもこのようなことは言われない。
そういう点からして、こんなことを言う様な人は、なんとも摩訶不思議な人と言わなければならなくなる。そしてこういう人々を国政を担うようにしたのは、そもそもが我々国民が選挙で選んだものだった訳で、その責は我々にある。というよりも、「既得権益」を引っ張り込もっとしたことにある。
もし我々が本当に正しい国政を望み、世界の平和を望むなら、「ダウン症や精神薄弱者、障害者」らを国政の場に送り、健常者がその手足となってこき使われた方が、大きな寄与になるだろう。