原は食の裁判官が、電車の中でであったかしゃがみ込み、女の人のスカートの中を覗き込み、どんな下着を付けているか見ようとしてセクハラで逮捕されている。これは警察署長とかの警察官や、校長とかの教員なども、女の人のスカート内を携帯で写そうなどとして逮捕されている。
ところがである。
テレビの画面には、下着姿の女が堂々と映し出されている。
週刊誌などでは裸体が、それも毛髪まで見せたものが載せられている。
こういう事は、セクハラへの誘惑であり、かつ挑発、強制、強要させようとするものに当たるが、そういう罪で逮捕されたためしがない。
放送局や出版界、メディアは、こういう事を行いながら収入を得ている。
それだけでなく、こうしたメディアや雑誌の被写体になって肢体を晒している女も、何の罪咎も課せられない社会だから、驚き桃の木山椒の実である。
メディアや出版界に何故このように罰則が科せられないかというと、政治との繋がりがある。政治家や官僚は献金や既得権益やパーテー資金欲しさに、メディアや出版界の言いなりになり、少しも罰則を強化しない。
このためにセクハラの被害にあう女性にしても、こういうは肢体とも媚態ともいう姿を公に見せ開かすものや、その関係のメディアや出版界の奥さんや娘が被害にあうとしたら自業自得だが、それが被害にあう女性は一般市民が合う。それも中高生といった女子も被害にあう。
いくらセクハラを行う男どもを非難しても、その原因を作るメディアや出版界と、それに乗っかって放置している政界や官僚たちが既得権益を根絶やしにしない限り、セクハラ事は根絶できない。
我々が口にする「人生」とは、「求め、得る」ことである。
その尤もたるものが、「幸せ」である。
次いで「楽、金銭、地位、権力、領土、面目、学力」などがある。
これらはすべて他から求め、得るものになっている。そしてそのためには、血がにじむような努力も厭わない。
だがこうした「幸せ」や、「楽、金銭、地位、権力、領土、面目、学力」などは「他から」の求めや得るものになっているから、これが提供されるとか差し出されるとかしてもらわなければならず、これが思うに任せないと「強奪、略奪、引用、盗用、捏造」といった事をしてでも手に入れようという事になる。
こうした行為は、当然のこととして「恨まれ、責められ」る事になるばかりでなく、「嫉み、妬み」を買うことにもなる。
これというのも、これらのものを「求める、得る」という事の、他のものを当てにしている事にある。
前篇「人生設計 (上)」では、こうした事の反対の「奉仕と布施」がなければならないと述べた。それは「能動性と受動性」の違いともいえる。
我々は兎も角に「受動性」になって、求める事や得る事にあくせくしている。こうして「求める事や得る」ことに一生懸命になっているばかりで、他への「能動性」、「働きかけ」ともいえる「奉仕や布施」を行わない。これにより、他のものや周囲のものとの軋轢ばかりが増して、それが自分ばかりか人々の「人生設計」を破滅させていく。
これには又前日の「セクハラ」でも述べたように、社会全体へまで悪影響を及ぼしている。
ちなみに、ここで言っている「奉仕や布施」という事は、「自分は楽をするから、お前らは辛い目に合え」というようなものではなく、「自分が楽する事は棚に上げ、人々の楽を優先」させることでもある。