政治とはどういうものかというと、多数意見をして、少数意見者の人権をはく奪することである。
弱き者、辺地の者、貧しき者らを虐げ、いじめたり虐待していくのが政治である。こういう仕組みを作っているのが、現今の教育ともなっている。
弱き者を思いやり、辺地の人々を救済し、貧しきものを労わっていく政治姿勢がない。
これが今の、政治の姿である。
「償い」とは、一般的には犯罪などを犯し、被害者や遺族に対する贖罪として使われる。
しかし宗教における「償い」とは、これとは異なっている。殊に法然上人が建てられた浄土宗、その弟子の親鸞聖人が建立した浄土真宗においては、そうした罪重を超えたものを償いとしている。
宗教においては、生命が発生したそのものが、罪とみなされている。
何故かというと、この生命が長らえていくための営みには、他の者の犠牲が必要だからだ。これは絶対に、自分一人では生きて行けず、どうしても他の者の犠牲が必要になり、罪を重ねていかなければならないものである。
こうした罪を重ね、償いをしていかなければならない身と知るならば、必然的に「有り難い」と感謝せずにはいられまい。
一秒一刻この「有り難い」と感謝のもとに生き、一生を償いの生活としていくことに宗教の心がある。