日木流奈さんのことは、「月のメッセージ」という本に出会うまで全く知らなかった。しかしこの一冊の本を読むことによって、他の十冊ほどあるらしい著書を拝見しなくても、その心の世界を知ることが出来たし、合い通じることができた。
ネットなどで見れば、日木流奈さんはNHKテレビでも取り上げられているとのことで、そこでは詩人として紹介されている。しかし日木流奈さんは、詩人と枠内に限定して受け止めるべき人ではない、大きさと深さのある人である。むしろそうすべきでもないが、「信仰の人、宗教の人」とも言える人である。
一般に宗教は、哲学などは道理と理性から見るのに対して、神秘に依存しがちなところがある。だが真の宗教は、この神秘性と道理と理性とを兼ね備えたものであり、調和を持っている。ただ神秘なだけのまがまがしいものは、真の宗教とはいえないものである。
日木流奈さんの心の世界は、こういう信仰の元に宗教観に立っているとみなされるが、それはさて置き、日木流奈さんの心の世界の要となる「基本」について述べることにする。
日木流奈さんの心の世界の基本は何かというと、「幸せを求める」ということに尽きるだろう。「幸せを求めて」止まない事が原動力になっていて、尽きることがない。
しかしこの「幸せ」とは、私達が思い考えているような「幸せ」とは異なるものである。
私達が求める「幸せ」は、損得を選んで欲得を満足させ、楽しいこと、楽なこと、気持ちの良いことを言い、そうであって欲しくないものをいう。苦しいことや辛いこと悲しいことなどは。
ところが日木流奈さんが求める「幸せ」はそうではない。苦しい中にも辛い中にも悲しい中にも寂しい中にも、そんな中にあっても見出される幸せで、それはそんな中で人として、人らしく生きていくことの生きがいという「幸せ」のことを意味している。安らぎと平安のあるという「幸せ」こそが、真の「幸せ」ということだろう。
釈尊、お釈迦様も語っていられたが、「私ほど真剣に幸せを求めていたものはいない」と。それが日木流奈さんにもあり、心の世界を築く基本になっている。
先日、いつも訪れているところに、一冊の本が置いてあった。
日木流奈著作、「月のメッセージ」という本だった。
何気なくページをめくって読んでいくうちに、私はこの本の内容が私と同じ心の世界をかたどっている事に気が付き、改めて初めから読み返した。
この日木流奈さんという方は、1990年生まれだという。そして脳障害を持って産れ、ケイレン発作などを起こしたりなさっているとのことであった。そして詳しいことはまだよく判らないが、(NHKテレビで放送されたことがあるらしく、詩人といわれているらしい)、この本は八歳の時に著されたそうだ。
そうした経歴はともかく、幼少年期にして既にこれ程の心の世界を持たれるとは、人は知性的な生き物ではないことを物語っている。直感としても、人の本質に迫れる事を、この日木流奈さんが明らかにしていると言えるだろう。
それは今日、障害者だから、知的障害者だからと疎むけれども、彼らがどれほどの真実の心の世界をみているかは、私達は知らないでいる。私なども、この年になってやっと入り口の扉を開かれたかな、と思えるものなのに、八歳にして既にこれほどの心の世界を切り開かれている。それも脳障害という、障害を持ちながら・・・
この日木流奈さんの著書を見ると、何とかの大統領とか首相や官僚の演説などは、ほら吹きに聞こえてしまう。
日木流奈さんのHPアドレス
我がものと、うぬぼれないで 2008/4/1
一
春の陽射しの 暖かさに
胸ときめきて 夢思い
あれが欲しい これが欲しいと
数ある望み 持っていても
それがかなうものと
うぬぼれないで
二
若草芽ふき 風かおり
水もぬるむ 水辺にも
あれがいいな これがいいなと
かれやこれやと 選り好みしても
みんな自由になると
うぬぼれないで
三
野辺の花に 思いはせ
空飛ぶ鳥に 夢たくし
思いのままに 変えたくても
それはそのまま あるがままなのに
黒を白にできると
うぬぼれないで
四
雲は行く 流れのままに
水も行く 流れのままに
人も行きたい 流れのままに
世の流れのままに 道に従いつつ
人はこの世を我がものと
うぬぼれないで