青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

ねじれ国会解消案

2008年05月14日 | 短歌に政治や社会
国会は、また再議決が行われた。
これは衆院と参院とのねじれによる、行政府の捨て身ともいえる対抗行動とも言えるだろう。
ところで現在の国会法というのか、衆参両院に関係する法律には、こうしたねじれた場合に対しての解消対策が想定されていない。このことが、日銀総裁人事や道路特定財源法案審議などで混乱する原因になっている。
それで思うのだが、今日のような状況、昨夏の参院選で野党が過半数を制した時点で、衆院を解散するような法整備をして置けばよかったように思われる。
これは又、参院が方が過半数を制していても、衆院選で与党が過半数を制したなら、参院を解散選挙すべきであることを意味する。
それによって、国民はどちらかの選択肢を選ぶだろう。
今のままでは、国民によって選良された議員が議決した法案とはいえ、それによって国民生活がこのように混乱するのは困り者だ。
それ故に、ねじれたならば速やかに信を国民に問うならば、ねじれ国会は、解消するかもしれない。

ところで道路特定財源法案についてだが、「道路、道路」といっていても、地震など災害に見舞われたなら、せっかくの道路も何もあったものではない。そこのところを、為政者はよく考えて欲しい。

命か、それとも心で生きるか!

2008年05月12日 | 人生設計
人は「幸せになりたい」思いを持っている。持っていて、止まない。
だがそうでありながら、心や精神の平安と安らぎのある「幸せ」ではなく、豊かさとか楽とか栄誉とかお金とかの恵まれたものを「幸せ」と思っている。そしてそれは、健康で元気でなければならない訳でもあり、肉体的なものの幸せともいえるものになっている。
しかしこうしたものは、移ろうものである。いつまでもその状態を保っているものではない。必ず変化していく。その変化は、破壊され、壊れていく運命にある。
そういうもの、いうなれば「命」というものに「幸せ」を託して生きるべきなのだろうか。
前述した「医療費が増える訳」の結末文で、「これ以上医学を進歩すべきではない」と述べたが、このことを誤解される方も多いだろう。何故なら「病気になっても、治療を受ける必要がない」ということでもあるのだから。
しかし本意は、そうではない。病気になったと言うことを真摯に見詰めて素直に受け入れ、それを定めとして運命として受け入れるべきだと言いたかったのである。
病気を治療して貰うとしても、治る場合と治らない場合がある。危険性、リスクがあるのである。それを他者に委ねなければならない。この他者に委ねたことで悶着が起きているのが、今日の現状である。
これは我々が「幸せ」を、他に依存しようとしているがためにこういうことになる。
我々に限らず生物には、本来「自然治癒力」を持っている。この「自然治癒力」は、よく言われているように私達が本来性に立ち返ったときにこそ発揮される。
上手く説明できないが、私達は一般に人に認められたいと思っている。教養とか技能とか学力とか職場などで、認められようとしている。しかし最も認めなければならない自分と言うものからは、認めるとか認められないとかはお構い無しになっている。
こんな自分でよいのかという自分自身が、自分自身に認められる自分自身にならないことには、他の人から認められるとか認められないとか言うのは、大変矛盾したことになる。それ故に、まずは自分自身が、自分自身に認められるようにならなければならない。
それが「心に生きる」ということである。それは「自己発見」でもあり、キリストが言ったという「人はパンのみにて生きるにあらず」に通ずるものでもある。
「自然治癒力」は、こうした自分が自分を認めることによって、「心に生きる」ことによって、その智力を発揮していく。

医療費が増える訳

2008年05月10日 | 短歌に政治や社会

今日、医療費が増え続けている。これに伴い政府は、この医療費増加の抑制策を打ち出している。そしてそれが、我々国民にしわ寄せされている。
それを一々述べるまでもない事だから、ここでは述べない事にして、ここでは何故このように医療費が増え続けるのかを取り上げたい。
このことは、これまでもよく取り上げられている。過剰な診療や投薬といったことから、高齢化が進んでいるという具合に。しかし尤も肝心なことが取り上げられていないようだ。
私達は誰しもがいつまでも健康で、元気にいたいという思いを持っている。病気や怪我をしても、治療して長生きしたい、辛い思いをしたくない、苦しみたくない想いを持っている。この思いから、医療技術を発展させ、医薬技術も進歩させてきた。
ところがこの医療技術と医薬技術の進歩が、医療費を押し上げることになってしまっている。
高度医療の進歩は、死亡率の減少につながる事になったけれども、一方では医療保険の崩壊という現象に直面することになった。いや、単に医療保険ばかりではなく、社会保障全般に及ぶ事態にさえなっている。病院の診療科閉鎖もそうだし、救急患者のたらいまわしもそうだし、母子家庭や生活保護者への規制強化もそうだし、後期高齢者医療制度もそうである。また医療訴訟ということもあり、赤ちゃんポストということもある。
そして医師も、地方から都市へと集中していく。
他方お金があるものは高度医療を受けるし、臓器移植も受けるという具合になっている。このために、医療費を押し上げ、医療保険が崩壊の危機に直面し、社会保障も危うくなっているともいえるだろう。
医学の進歩がこのように全てのものに行き渡らずに片寄るものならば、もう進歩させるべきではあるまい。


青い鳥の歌詞 二十一、我らの住む世界は

2008年05月07日 | 作詞

我らの住む世界は       2008/5/6




世の流れは 移ろいで
雨に風にと 地の動きにと
世の営みに 汚れても
自然の命は よみがえる
ああ 我らの住む世界は
すばらしい




小路の垣根の つつじ花
紅に白くに ピンク花
薫る風にも 緑燃えて
ツバメ飛び交う 田園に
ああ 我らの住む世界は
うつくしい




映えてはわたる 野山里
飛び走り泳ぐ 生き物たちに
野の草花は 匂い咲き
嬰児たちは ほおえむる
ああ 我らの住む世界は
あたたかい




砂の小粒の 転がりも
夜空の星の 輝きも
湖のなぎの 静けさも
移り流れる 時ともに
ああ 我らの住む世界は
果てしない


自分が主

2008年05月04日 | 人生設計

この世に存在するものは、全てが何らかの役に立つ存在として存在している。為になり役に立つための存在によって成り立ち、それがお互いの共存関係として成り立っている。これが自然の、仕組みとも法則ともいえる関係にある。
ところがこの中で、私達人間だけがこうした仕組みとも法則ともかけ離れた行いをしているものが多々いる。
私達人間にしても、生きていくためには全てのものに依存していかなければならない。食べ物にしても、生活関連製品にしても、我々人間の役に立ってもらわなければならないのである。だが私達人間は、そうして役立ってくれるものに対して、何らかの役に立つことをしているかというと、余りしていない。
食べ物を食べても、食べ物となったものを生育しようとはしないし、食べ残したりすればゴミとしてしまい、生活物質も使うだけで蘇らせることはせず、これもゴミの山にしてしまう。

このように私達は物に依存し、また人間関係でも他人に依存しようとしている。
私達は、私達の主が、私達自分自身であるということに、気が付いていない。だから物に依存し、他人に依存してしまっている。この受動的な依存性から、他への働きかけともいえる役に立ちたいと言う能動的な共存共生に立つとき、自分自身の主が自分自身であることに目覚めることだろう。


青い鳥の短歌 五、

2008年05月03日 | 短歌に政治や社会

私が通っているディサービスセンターでは、
先月半ばから改修を始め、
月末に完成しました。
すっかりきれいになって、
とても気持ちよくなって、
それを詠んだのが、
次の短歌です。

  ★  リフォームして
        気持ち新たな
           ディルーム
     かぶと人形の
        雄雄しい姿も


テクノラティプロフィール


生活を荷う人

2008年05月02日 | 人生設計
八十一歳と七十四歳の老夫婦が、トラクターで農作業に出掛けていた所、運転を誤り道路から転落して、ご主人が死亡し奥さんが重傷を負うという事故があった。この痛ましい事故は、今日の世相を如実に現している。
八十歳を過ぎた老人達に、私達の生活の要である食糧の生産を任せておかなければならないという現実、そして元気で健康な若い者は何をしているかと言うと、スポーツやコンサートや芸能事に明け暮れているという現実、それが今日の社会の姿である。
今の社会は、年金や後期高齢者医療制度などでやられながらも、少しながらの自給自足は、地方の片隅でがんばる老人たちの手によって支えられている。