2月16日付 産経新聞より
小沢氏依存はドーピングと同じ 東洋学園大学准教授・櫻田淳氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100216/stt1002160301000-n1.htm
1988(昭和63)年夏季オリンピック・ソウル大会での一つの衝撃は、陸上男子100メートル競走におけるベン・ジョンソンの圧勝とその後の顛末(てんまつ)であった。ジョンソンは、当時は人気、実力ともに世界随一であったカール・ルイスを世界新記録の成績で下したけれども、競技後にドーピング(禁止薬物使用)が発覚し、金メダルと記録を剥奪(はくだつ)された。
ジョンソンは、一転して「汚れた英雄」として記憶されるようになった。
≪止められない「薬物」≫
「政権交代」以降、鳩山由紀夫総理と小沢一郎幹事長の「政治とカネ」に絡む醜聞への対応に揺れた民主党の様子を前にして、筆者は、このジョンソンの「一瞬の栄光」と「転落」の軌跡を想い起こす。というのも、筆者は、小沢一郎氏という政治家は、民主党にとっては「強烈なドーピング」の類であったのではないかと考えているからである。小沢一郎幹事長は、田中角栄氏から、竹下登氏、金丸信氏へと連なる「利益誘導」依存の政治スタイルを民主党に持ち込んだ。
しかしながら、そもそも、鳩山総理や菅直人副総理兼財務大臣を中心として結成された民主党は、「1955(昭和30)年体制」崩壊前後の政治状況を反映して、そうした田中角栄流の「利益誘導」依存の政治スタイルを乗り越えることを目指していたはずである。民主党は、小沢幹事長が率いた自由党との合併を通じて、その「利益誘導」依存の論理をも取り入れた。それは、確かに、民主党の党勢の底上げを図ることには、貢献したのであろう。
然るに、現下の民主党が総じて小沢擁護一色になっているのは、「昨年の衆議院議員選挙での勝利は、小沢氏の功績であるし、小沢氏の手腕がなければ、党内結束の維持も参議院議員選挙への対応も覚束(おぼつか)ない」という想定が、民主党内に自明のものとして受け容(い)れられているからであろう。
それは、「ドーピングを続けなければ試合に勝てない」と思い込む故に、薬物使用を止められないアスリートの姿を髣髴(ほうふつ)させる。事実、小沢幹事長の法律上、政治上、道義上の責任はともかくとして、民主党内に「事の理非」を問う雰囲気は、希薄なままである。結果として、民主党は、昔日の自民党に比べても、「政治とカネ」に絡む醜聞に際して、「自浄能力」に乏しい印象を世に与えるに至っている。
民主党が「小沢ドーピング」に走った代償は、誠に大きいと断じざるを得ない。
≪問われる政党の存在意義≫
加えて、現下の紛糾は、政党の存在意義をも問い直している。たとえば、「55年体制」の下では、自民党政権下で「政治とカネ」に絡む醜聞が表沙汰(ざた)になれば、それを追及するのは、社会党の役割であった。
ロッキード事件の際、当時は「社会党のホープ」と呼ばれた横路孝弘現衆議院議長が、疑惑追及の急先鋒(せんぽう)として名を馳(は)せていたのは、その象徴的な風景であろう。然るに、目下、その後嗣である民主党内旧社会党議員や社会民主党議員は、何故(なぜ)、鳩山総理や小沢幹事長に絡む同種の紛糾に際して、峻厳(しゅんげん)な追及の姿勢を示さないのであろうか。
旧社会党は、村山富市内閣発足時に「自衛隊合憲・日米安保体制堅持」に踏み切り、政党の看板の一つを捨てたけれども、彼らは、「政治とカネ」の面でも看板を捨て去るつもりであろうか。現下の紛糾は、そうしたことも浮かび上がらせているのである。
「皆、負けて反省はするんですけど、勝って反省しないんですよ。そこに皆さんの落とし穴があったんじゃないかと思います」
これは、先月中旬、野村克也前監督が自民党大会で行った来賓挨拶(あいさつ)の一節である。
≪昨年選挙の勝因を考えよ≫
昨年の衆議院議員選挙における自民党の下野の理由は、2005年の「郵政選挙」における大勝の意味を適切に検証しなかったことにある。「郵政選挙」以後、特に小泉純一郎内閣退陣以降、自民党は、小泉元総理が体現したような「改革」への期待を反故(ほご)にした結果、小泉元総理が「宝の山」と呼んだ無党派層の支持の離反と党勢の失墜を招いた。
そして、この野村前監督の指摘は、現在では民主党こそが真摯(しんし)に受け止めるべきものであろう。前に触れたように、民主党議員の大勢は、「昨年の衆議院選挙は、小沢一郎が勝たせた」と信じているのかもしれない。しかし、筆者は、その勝因の認識は率直に誤っていると断じる。昨年の衆議院議員選挙における「政権交代」は、第一義としては、自民党の「自滅」の結果であったにせよ、民主党の掲げる政策や小沢幹事長の政治スタイルが積極的に支持された故のものではない。
故に、民主党が、「小沢ドーピング」から手を切れない限りは、その末路は、推して知るべしであろう。それは、日本の政治全体にとって、何と不幸なことであろうか。(さくらだ じゅん)
小沢氏依存はドーピングと同じ 東洋学園大学准教授・櫻田淳氏
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100216/stt1002160301000-n1.htm
1988(昭和63)年夏季オリンピック・ソウル大会での一つの衝撃は、陸上男子100メートル競走におけるベン・ジョンソンの圧勝とその後の顛末(てんまつ)であった。ジョンソンは、当時は人気、実力ともに世界随一であったカール・ルイスを世界新記録の成績で下したけれども、競技後にドーピング(禁止薬物使用)が発覚し、金メダルと記録を剥奪(はくだつ)された。
ジョンソンは、一転して「汚れた英雄」として記憶されるようになった。
≪止められない「薬物」≫
「政権交代」以降、鳩山由紀夫総理と小沢一郎幹事長の「政治とカネ」に絡む醜聞への対応に揺れた民主党の様子を前にして、筆者は、このジョンソンの「一瞬の栄光」と「転落」の軌跡を想い起こす。というのも、筆者は、小沢一郎氏という政治家は、民主党にとっては「強烈なドーピング」の類であったのではないかと考えているからである。小沢一郎幹事長は、田中角栄氏から、竹下登氏、金丸信氏へと連なる「利益誘導」依存の政治スタイルを民主党に持ち込んだ。
しかしながら、そもそも、鳩山総理や菅直人副総理兼財務大臣を中心として結成された民主党は、「1955(昭和30)年体制」崩壊前後の政治状況を反映して、そうした田中角栄流の「利益誘導」依存の政治スタイルを乗り越えることを目指していたはずである。民主党は、小沢幹事長が率いた自由党との合併を通じて、その「利益誘導」依存の論理をも取り入れた。それは、確かに、民主党の党勢の底上げを図ることには、貢献したのであろう。
然るに、現下の民主党が総じて小沢擁護一色になっているのは、「昨年の衆議院議員選挙での勝利は、小沢氏の功績であるし、小沢氏の手腕がなければ、党内結束の維持も参議院議員選挙への対応も覚束(おぼつか)ない」という想定が、民主党内に自明のものとして受け容(い)れられているからであろう。
それは、「ドーピングを続けなければ試合に勝てない」と思い込む故に、薬物使用を止められないアスリートの姿を髣髴(ほうふつ)させる。事実、小沢幹事長の法律上、政治上、道義上の責任はともかくとして、民主党内に「事の理非」を問う雰囲気は、希薄なままである。結果として、民主党は、昔日の自民党に比べても、「政治とカネ」に絡む醜聞に際して、「自浄能力」に乏しい印象を世に与えるに至っている。
民主党が「小沢ドーピング」に走った代償は、誠に大きいと断じざるを得ない。
≪問われる政党の存在意義≫
加えて、現下の紛糾は、政党の存在意義をも問い直している。たとえば、「55年体制」の下では、自民党政権下で「政治とカネ」に絡む醜聞が表沙汰(ざた)になれば、それを追及するのは、社会党の役割であった。
ロッキード事件の際、当時は「社会党のホープ」と呼ばれた横路孝弘現衆議院議長が、疑惑追及の急先鋒(せんぽう)として名を馳(は)せていたのは、その象徴的な風景であろう。然るに、目下、その後嗣である民主党内旧社会党議員や社会民主党議員は、何故(なぜ)、鳩山総理や小沢幹事長に絡む同種の紛糾に際して、峻厳(しゅんげん)な追及の姿勢を示さないのであろうか。
旧社会党は、村山富市内閣発足時に「自衛隊合憲・日米安保体制堅持」に踏み切り、政党の看板の一つを捨てたけれども、彼らは、「政治とカネ」の面でも看板を捨て去るつもりであろうか。現下の紛糾は、そうしたことも浮かび上がらせているのである。
「皆、負けて反省はするんですけど、勝って反省しないんですよ。そこに皆さんの落とし穴があったんじゃないかと思います」
これは、先月中旬、野村克也前監督が自民党大会で行った来賓挨拶(あいさつ)の一節である。
≪昨年選挙の勝因を考えよ≫
昨年の衆議院議員選挙における自民党の下野の理由は、2005年の「郵政選挙」における大勝の意味を適切に検証しなかったことにある。「郵政選挙」以後、特に小泉純一郎内閣退陣以降、自民党は、小泉元総理が体現したような「改革」への期待を反故(ほご)にした結果、小泉元総理が「宝の山」と呼んだ無党派層の支持の離反と党勢の失墜を招いた。
そして、この野村前監督の指摘は、現在では民主党こそが真摯(しんし)に受け止めるべきものであろう。前に触れたように、民主党議員の大勢は、「昨年の衆議院選挙は、小沢一郎が勝たせた」と信じているのかもしれない。しかし、筆者は、その勝因の認識は率直に誤っていると断じる。昨年の衆議院議員選挙における「政権交代」は、第一義としては、自民党の「自滅」の結果であったにせよ、民主党の掲げる政策や小沢幹事長の政治スタイルが積極的に支持された故のものではない。
故に、民主党が、「小沢ドーピング」から手を切れない限りは、その末路は、推して知るべしであろう。それは、日本の政治全体にとって、何と不幸なことであろうか。(さくらだ じゅん)