「一つの林檎を弟と半分分けにして、二人が半分ずつ食べるのもむろん良いことでしょうが、時には「今日はお前みんなおあがり。近頃お利口になったごほうびさ」とでも言ったら、どんなものでしょう。
半分ずつ分けて食べたら、それはただの林檎の味―ところが弟にみんなやって、弟がニコニコしながら食べるのを見て喜ぶのは、まさに天国の林檎の味と言うべきでしょう。人生の妙味津々たるを知るには、まずこの関所を突破してからのことです。」
昨今の悲しい、空しい、呆れ果てる、メディアから流れる情報を聞くにつけ、このような精神が欠如しているのでは と思ってしまいます。自分の仕事においても、師匠が常々話されている「人の痛みを、我が痛み、人の喜びを、我が喜びとしなさい」という言葉が、鮮明に記憶中枢を刺激し、自我多き私の戒めとなっています。
「さて、このように私意私欲の一関を突破するということは、口で言えばただそれだけのことですが、しかし、いざ我が身のこととなると、決して容易なことではありません。しかし人間も、一たび私欲の一関を越えますと、一切の対人関係が明らかに見えて来ます。その明らかな筋道に従って行えば、みな道にかなうというわけです。」
正しい筋道に従って行えば…私欲が溢れる私にとっては厳しい言葉ですね。私たちは患者さん、あるいは世界の人々が皆、幸せになるために、自分は何をすべきか考えなくては心魂の成長はないということでしょう。
「そこでですね、もし諸君らにして、真に意義ある人生を送ろうとするなら、人並みの生き方をしているだけではいけないでしょう。それには、少なくとも人の一倍半は働いて、しかも報酬は、普通の人の二割減くらいでも満足しようという基準を打ち立てることです。そして行くゆくは、その働きを二人前、三人前と伸ばしていって、報酬の方は、いよいよ少なくても我慢できるような人間に自分を鍛え上げていく人です。実際、人間の偉さというものは、ある意味では働くこと多くして、しかもその受けるところが少ない所から生まれてくるとも言えましょう。」
『修身教授録』 森 信三 著 より抜粋
現在の市場原理の考え方と逆行するものだと思います。しかし、本来の仕事に対する心構え、人生の中の仕事を考えた場合は、上記のような考え方こそ大切なんだろうと思います。しかし、世の中、お金を稼いで生活していかなくてはいけないのでその辺りの矛盾を打開し、成長していくことが私たちの人生の課題なんでしょうね。
半分ずつ分けて食べたら、それはただの林檎の味―ところが弟にみんなやって、弟がニコニコしながら食べるのを見て喜ぶのは、まさに天国の林檎の味と言うべきでしょう。人生の妙味津々たるを知るには、まずこの関所を突破してからのことです。」
昨今の悲しい、空しい、呆れ果てる、メディアから流れる情報を聞くにつけ、このような精神が欠如しているのでは と思ってしまいます。自分の仕事においても、師匠が常々話されている「人の痛みを、我が痛み、人の喜びを、我が喜びとしなさい」という言葉が、鮮明に記憶中枢を刺激し、自我多き私の戒めとなっています。
「さて、このように私意私欲の一関を突破するということは、口で言えばただそれだけのことですが、しかし、いざ我が身のこととなると、決して容易なことではありません。しかし人間も、一たび私欲の一関を越えますと、一切の対人関係が明らかに見えて来ます。その明らかな筋道に従って行えば、みな道にかなうというわけです。」
正しい筋道に従って行えば…私欲が溢れる私にとっては厳しい言葉ですね。私たちは患者さん、あるいは世界の人々が皆、幸せになるために、自分は何をすべきか考えなくては心魂の成長はないということでしょう。
「そこでですね、もし諸君らにして、真に意義ある人生を送ろうとするなら、人並みの生き方をしているだけではいけないでしょう。それには、少なくとも人の一倍半は働いて、しかも報酬は、普通の人の二割減くらいでも満足しようという基準を打ち立てることです。そして行くゆくは、その働きを二人前、三人前と伸ばしていって、報酬の方は、いよいよ少なくても我慢できるような人間に自分を鍛え上げていく人です。実際、人間の偉さというものは、ある意味では働くこと多くして、しかもその受けるところが少ない所から生まれてくるとも言えましょう。」
『修身教授録』 森 信三 著 より抜粋
現在の市場原理の考え方と逆行するものだと思います。しかし、本来の仕事に対する心構え、人生の中の仕事を考えた場合は、上記のような考え方こそ大切なんだろうと思います。しかし、世の中、お金を稼いで生活していかなくてはいけないのでその辺りの矛盾を打開し、成長していくことが私たちの人生の課題なんでしょうね。