先週、天童美術館において、ヨーロッパ印象派の版画展が行われていると言う事なので、仕事のついでに寄らせてもらった。
フランスの150年ほど前の印象派と言われる画家達は、日本の浮世絵の影響を強く受けているからなのだろう、私達日本人には、すっと心の中まで入ってくる絵が多いような気がする。 ゴッホはもちろんのこと、ルノワール、スーラ、セザンヌ・・・他、彼らの絵は見るたびに感慨を新たにさせられる。 久しぶりに、彼らの新鮮な心の伊吹を感じることが出来た。
帰りしなに、出口に居た学芸員に、《あの人》の人形展は未だ行なわれているのか尋ねてみた。
雛人形展と一緒と言うのは、頭に入っていたのでとっくに終わっていると思っていた。
親切なその人は、同じ天童の《郡役所資料館》に電話を入れてくれ、「大丈夫、未だやってるそうですよ・・。」と教えてくれた。 実は筆者は、大滝博子氏の人形依存症に近い形に、陥ってしまったようである。
ジュサブロー氏のような、氷のような感情を最小限に抑えた人形よりも、信州の高橋さんのように暖かさと人間関係を全面に押し出した人形よりも、ほんのりとした暖かさと、色気を内に秘めた『大滝氏』の現在の人形が好きである。
なにしろ、其の人形に出会うと、眠らされていた心の中の懐かしさをと感動を、再び呼び覚まされる。
いそいそと、天童郡役所資料館に出かけていった。 とても『ラッキー』と言う気持ちであった。
入り口には、大きく《撮影禁止》と書いてあった。 「エェーーーーーーェ」。
前の週に、大阪と奈良の古建築と古仏像を写真に収めてきた筆者には、信じられない事であった。
もちろん、古いものを映す場合《フラッシュ》厳禁は当然のこととしても、全面撮影禁止は考えても居ない事であった。
能面のような、あるいは人形のような3次元の造形物は、見る角度によって其の作者の思いが複雑に交錯するもので、其の中から現在の自分の気持ちと重なる角度を探し出す事が、一つの楽しみであるのに・・・ 。
受付の女の人に、聞いてみた。 役所が保管する資料には、何の興味も無いので人形だけ、写真を撮らせて貰えるように頼んでみた。 そしたら奥から、館長らしき男の人を連れてきた。
その人が言うには、(何時から展示が始まったのか知る由も無いが)今まで撮影禁止で入館を許可してきたので、彼方だけに許可する訳には行かない・・・と言う風な言葉使いであった。
前の、広重美術館の人形展は撮影可能だったのですが、作者に連絡していただければ《OK》と言われるのじゃないか・・と、進言したのだが、館長は「どうしても、連絡が取れない」の一点張りであった。 こちらの思いとしては、何等「官僚たちの古文書には興味がない」と言い続けたのだが、無理であった。
ここでも、公務員の意味の無い建前論に振り回されることになった。 古文書にしてもそれは公務員の財産ではなくて、市民の財産なのであろう・・・・ と言いたくもなる。 どこでも突き当たる事であるが、公務員は自分の責任の回避と、自分達の共通の面子の為には、市民の思いなどは関わりたくもないのであろう。
改めて言うが、《大滝博子氏の人形》は山形の文化的資産になるかならぬかの、今が瀬戸際の時期ではないかと思う。
情けない事に、其の大きな視線が欠けている《公務員》など単なる《生ゴミ》似すぎないのだが、多くの公務員的体質がこのようなものであるのだろう・・・・ 。
当ブログの、読者の半数以上が公務員であるだろう事を考えれば、こんな罵詈雑言を書くべきではないのかもしれないが、山形のあるいは日本の将来も、其の情けない公務員達の双肩に掛っているのであれば、これもやむを得ない・・。
フランスの150年ほど前の印象派と言われる画家達は、日本の浮世絵の影響を強く受けているからなのだろう、私達日本人には、すっと心の中まで入ってくる絵が多いような気がする。 ゴッホはもちろんのこと、ルノワール、スーラ、セザンヌ・・・他、彼らの絵は見るたびに感慨を新たにさせられる。 久しぶりに、彼らの新鮮な心の伊吹を感じることが出来た。
帰りしなに、出口に居た学芸員に、《あの人》の人形展は未だ行なわれているのか尋ねてみた。
雛人形展と一緒と言うのは、頭に入っていたのでとっくに終わっていると思っていた。
親切なその人は、同じ天童の《郡役所資料館》に電話を入れてくれ、「大丈夫、未だやってるそうですよ・・。」と教えてくれた。 実は筆者は、大滝博子氏の人形依存症に近い形に、陥ってしまったようである。
ジュサブロー氏のような、氷のような感情を最小限に抑えた人形よりも、信州の高橋さんのように暖かさと人間関係を全面に押し出した人形よりも、ほんのりとした暖かさと、色気を内に秘めた『大滝氏』の現在の人形が好きである。
なにしろ、其の人形に出会うと、眠らされていた心の中の懐かしさをと感動を、再び呼び覚まされる。
いそいそと、天童郡役所資料館に出かけていった。 とても『ラッキー』と言う気持ちであった。
入り口には、大きく《撮影禁止》と書いてあった。 「エェーーーーーーェ」。
前の週に、大阪と奈良の古建築と古仏像を写真に収めてきた筆者には、信じられない事であった。
もちろん、古いものを映す場合《フラッシュ》厳禁は当然のこととしても、全面撮影禁止は考えても居ない事であった。
能面のような、あるいは人形のような3次元の造形物は、見る角度によって其の作者の思いが複雑に交錯するもので、其の中から現在の自分の気持ちと重なる角度を探し出す事が、一つの楽しみであるのに・・・ 。
受付の女の人に、聞いてみた。 役所が保管する資料には、何の興味も無いので人形だけ、写真を撮らせて貰えるように頼んでみた。 そしたら奥から、館長らしき男の人を連れてきた。
その人が言うには、(何時から展示が始まったのか知る由も無いが)今まで撮影禁止で入館を許可してきたので、彼方だけに許可する訳には行かない・・・と言う風な言葉使いであった。
前の、広重美術館の人形展は撮影可能だったのですが、作者に連絡していただければ《OK》と言われるのじゃないか・・と、進言したのだが、館長は「どうしても、連絡が取れない」の一点張りであった。 こちらの思いとしては、何等「官僚たちの古文書には興味がない」と言い続けたのだが、無理であった。
ここでも、公務員の意味の無い建前論に振り回されることになった。 古文書にしてもそれは公務員の財産ではなくて、市民の財産なのであろう・・・・ と言いたくもなる。 どこでも突き当たる事であるが、公務員は自分の責任の回避と、自分達の共通の面子の為には、市民の思いなどは関わりたくもないのであろう。
改めて言うが、《大滝博子氏の人形》は山形の文化的資産になるかならぬかの、今が瀬戸際の時期ではないかと思う。
情けない事に、其の大きな視線が欠けている《公務員》など単なる《生ゴミ》似すぎないのだが、多くの公務員的体質がこのようなものであるのだろう・・・・ 。
当ブログの、読者の半数以上が公務員であるだろう事を考えれば、こんな罵詈雑言を書くべきではないのかもしれないが、山形のあるいは日本の将来も、其の情けない公務員達の双肩に掛っているのであれば、これもやむを得ない・・。