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山形大生死亡訴訟・救急車不出動

2012年10月09日 | 日記
 ―― 事件概要は以下の通り ――
    
***以下引用  山形新聞10/8付 ***
   http://yamagata-np.jp/news/201210/08/kj_2012100800227.php

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 原告側によると、埼玉県熊谷市出身の大久保さんは2010年、山形大理学部生物学科に入学。 親元を離れ、山形市内で一人暮らしをしていた。 11年10月30日から具合が悪かったが、翌31日未明、体調が急変。 同日午前5時11分、携帯電話から119番通報した。 しかし、自力で病院に行けると判断され、救急車は出動せず、大久保さんは10日後の11月9日、死亡した状態で発見された。

 原告側は通報時の音声記録から ▽弱々しい声や苦しそうな息遣いをしている ▽通信員とのやりとりで、名前を尋ねられているのに年齢を答えた-などとし、大久保さんの容体が相当悪化し、判断・思考能力が低下した状態だったことを認識できたと主張。 救急車以外に移動手段はなく、緊急性があったにもかかわらず、誤った判断によりタクシーで病院に行くよう誘導され、被告の過失で大久保さんは死亡したとしている。

 一方、被告の市側はそもそも声の強弱で容体や緊急性を判断すべきものではないとし、自分で病院に行けると言った大久保さんに病院を紹介している点から、通信員とのやりとりもかみ合っていると反論。 通信員は「緊急通報受理票」にある意識や呼吸、出血、嘔吐(おうと)の有無、独歩可能かなどの確認項目に基づき、大久保さんの状態を客観的に判断したと主張している。 また大久保さんは「動ける」「タクシー業者の電話番号が分かれば自分で行ける」と言ったとして、不当な誘導や誤った判断はなかったとしている。
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  ***  以上 引用   終  *** 

 
 昔から子供向けのお話として、田舎と都会の意識の違いを際立たせる、童話がある。
それは、都会と田舎に住む人では意識に大きな乖離が有ると言う事だろう・・・ 。

 病死した被害者が、もし県議会議長や、市長の息子だったら・・・、例えタクシー代わりと推測されても、担当者は救急車を出動させていたのだろう、所謂、これが田舎のクォリティー。  もし記録が廃棄されずに保存されているのなら、過去5年間の出動記録を調べたら、県や市の公務員の子弟や県会議員の子弟などの、要請が断られる事は無いと云うことが裏付けられるのではないか・・と筆者には思える。

 あるいは、田舎における公務員の立場は、一般的に云われる《公けの僕》と云う立場よりも、どちらかと言えば、《羊飼い》の立場に似ており、《羊》達には細々とした反論の余地は認められては居ない。 彼らは、あくまでも田舎においては、指導的立場なのだろう。

 グローバリズムが、山形の僻地にも及んでいるとしたら、この裁判は原告が勝つのは当然の事であり、それは二つの理由に拠る。 一つは『被害者自身が命の危険を察知して、119番で救急車を呼ぼうとした』事であり、その危険を予測したのにも関わらず、二つ目には『彼は、命を落としている』ことである。 法的に《もし》と云うことが許されるのかどうか知らないが、もし救急車が出動していれば、有為な未来を持つ一人の青年が命を落とさずに済んだ事は間違いない。


  ***  以下引用  河北新報 10/5付 *** 
    http://www.kahoku.co.jp/news/2012/10/20121005t53012.htm

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 たとえば(筆者記)、火事で119番通報があったときに、「自分で火を消せますか」「どのくらい燃えてますか」と聞くだろうか。 同じ話だ。

 行政サービスが機能しているかをチェックするのが、選挙で市民に選ばれた市長だ。 役人の側に立ち、市民が言っていることを間違っていると言うなら、市長の資格はない。 少なくとも調査をして市側に非がなかったかを検証すべきだろう。 山形市は何をしても調べることをしない極楽な役所と思えてしまう。

 救急車の不出動と死因との因果関係だけで争わず、もっと広い範囲で裁判をとらえるべきだ。 市には市民の生命、財産を守る責任があることを明示する裁判であってほしい。 そうでなければ、行政も司法も市民を守らないことになる。

 市が勝訴すれば、消防本部の対応は正しかったことになり、今後も119番通報に同じ対応をするだろう。 「タクシーで行けますか」と誘導する対応が、山形でまかり通ることになる。
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  ***  以上引用  終  ***


 田舎の人たちは、往々にして権利意識を声高に、訴えたりする人が非常に少ない。  言葉を変えて云えば、お上意識がいまだ行動の基本原則であり、自らの行動さえも為政者の気持ちを慮って、自ら制約する事が多い。
こんな人達ばかりでは、グローバリズムの中で溺れてしまうのではないか・・、あるいは、もっと当人よりも弱い者への攻撃的行動となって現れるのかも知らん・・ 。
なにしろ、田舎には《アホ》に限って、自分は《エライ》と思っている人が多い。

コメント
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