昨日気になることを全部処理したので、今日はスッキリ新しい人生を歩み始めるような気分です。運動してから登校。10月31日から毎日運動を続けてますが、運動前の体重でも3㎏減です! 晩飯に食べ過ぎないよう気をつけるようになったところ、いい感じに減量の効果が出てきました。後はリバウンドの衝動に負けないことだな。これがなかなか大変で、今までの減量失敗+増量成功の原因なのです。
昼食後、まず某先生のデータ作成。ついで『日本史講座』の一章を読む。さらに、某学会投稿論文を、気持ち書き進める。
夕方から三味線仲間のTさんの紹介で、飲み会の席に三味線演奏に行く。会場は、「ホットカモ」(私が疲れるとよく行く、健康ランドのような温泉)の隣のお店でした。演奏して、食事も用意してくださっていたのでいただきました。食事をしながら、Tさんから学校9月スタート問題、教育基本法問題、学校の権威低下問題について聞かれたので、なんやかんやとしゃべりました。その後、温泉入って帰りました。
帰った、といっても、研究室に(笑)。昨日からやる気が出てきたので(何とも皮肉だ)、今日はもうちょっとやりたかったのです。そして、博論の根本的テーマはやはり日本教育学史にならざるを得ないようなので、明治期の学問とは何だったか、研究とは何だったか、ということをハッキリしなくてはいけない。今日読んだ『日本史講座』の論文は、それに関係する内容でしたから、まとめておきたかったのです。ということで、久しぶりに「論文要旨」を書きます(笑)。
今日読んだのは、広田照幸「近代知の成立と制度化」(歴史学研究会・日本史研究会編『近代の成立』日本史講座第8巻、東京大学出版会、2005年、251~275頁)でした。同著の性格に基づくものですが、同論文は、研究論文というか、斬新な視点から先行研究をまとめたもの、という感があります。さて、同論文が問題としているのは、日本の近代化初期段階における「知」に関する課題として、伝統的な教養の体系および伝統的な教養層、すなわち漢学の素養とそれを身に付けた集団が存在しながら、それが新しく必要とされる「知」や「知識人」とズレていた、という事態を問題にしています。同論文では、この事態を「知のミスマッチ」と名付けています。
広田論文は、日本の近代化初期における「知のミスマッチ」という問題を、高等教育機関の入学者選抜、すなわち官私立の大学・専門学校等の入学試験の制度化過程において見いだそうとしています。この問題と方法のつながり、実は私には正直言ってわかるようでわかりにくいのですが、中身を読めば何となくわかりました。
明治前半期の高等教育機関でとられた「知のミスマッチ」を埋めるやり方は、大きく2つありました。第1のやり方は、本科より下級に予科などの普通学を教える課程を設置し、そこでの教育を受けた上で本科を学ばせるというやり方です。第2のやり方は、伝統的な知に依拠して、いくつかの科目を試験するやり方です。第2のやり方は、さらに2種類あります。一つは、伝統的な知すなわち漢学の試験だけで合否を決めるタイプ。もう一つは、漢学的な読書・作文の試験と若干の西洋的な知識を問うタイプで、こちらの方が1870年代~1880年代半ばにかけて一般的だったといいます。1880年代半ばまでは、高等教育機関やその予備課程の入学試験に合格するまで「どこで学んだか」は問題ではなく、入試をこなす「学力」があればよかったので、私塾が隆盛をほこり、青年たちは私塾や学校を遍歴するのが常でした。とくに、和漢文が入学試験で重視されていたため、漢学塾は洋学塾とならび、隆盛を誇ったのです。
ただ、明治19(1886)年の中学校令公布を境に、中等教育のカリキュラムや施設設備の制度化による教育水準の向上が企図されるようになりました。1900年代初頭ごろまでに、尋常中学校のカリキュラムにあわせて高等教育機関が入学者選抜の方法を変え、中学校を経由しないことが高等教育機関進学に不利になって、尋常中学校への就学要求が高まりました。そして、これは高等教育進学を目指す青年たちが習得すべき「知」が変化していくことも意味しました。
1886年~1900年代初頭(明治20年代~30年代)の時期は、高等教育入学に必要な「知」が、尋常中学校のカリキュラムに対応した科目に変化しました。すなわち、国語漢文・外国語・地理・歴史・数学・博物物理化学大意・図画・体操などの、中学校のカリキュラムに規定された「知」が求められるようになったのです。その帰結として、尋常中学校卒業生の無試験・特別試験の制度化が見られるようになり、不規則な就学を行ってきた者が高等教育機関進学の競争から排除されていきました(決定的な要因は1903年の専門学校令・専門学校入学者検定規定の公布)。
以上のことを明らかにした広田論文は、次の2点を提起しています。第1に、明治後期以降の中等以上の国民の「教養」の内実(高等教育進学をめざす誰もが共通に学んだ近代知)は、選抜場面で漢学的な知を押しのけて現れた、中学校で学ばれた普通学であったかもしれない、ということ。第2に、明治期のかなりの期間にわたり、旧来の「教養」たる漢学的知を有する社会層は、その知的資源を活かしつつ、新たな「教養層」=高等教育学歴の取得者に転身することが可能だった、ということ。
非常に読みやすい論文でした。さて、読後に残った疑問は、文中で「知」と「教養」が入り交じっているが、この二つの概念は交換可能なものなのか?ということ。そもそも、高等教育機関入学試験で求められた知識と「伝統的知」または「近代知」は同じものなのか?ということ。そういえば、この間読んだ中村著で、儒教的知と近代知についていろいろ語られてたな。また勉強します。
昼食後、まず某先生のデータ作成。ついで『日本史講座』の一章を読む。さらに、某学会投稿論文を、気持ち書き進める。
夕方から三味線仲間のTさんの紹介で、飲み会の席に三味線演奏に行く。会場は、「ホットカモ」(私が疲れるとよく行く、健康ランドのような温泉)の隣のお店でした。演奏して、食事も用意してくださっていたのでいただきました。食事をしながら、Tさんから学校9月スタート問題、教育基本法問題、学校の権威低下問題について聞かれたので、なんやかんやとしゃべりました。その後、温泉入って帰りました。
帰った、といっても、研究室に(笑)。昨日からやる気が出てきたので(何とも皮肉だ)、今日はもうちょっとやりたかったのです。そして、博論の根本的テーマはやはり日本教育学史にならざるを得ないようなので、明治期の学問とは何だったか、研究とは何だったか、ということをハッキリしなくてはいけない。今日読んだ『日本史講座』の論文は、それに関係する内容でしたから、まとめておきたかったのです。ということで、久しぶりに「論文要旨」を書きます(笑)。
今日読んだのは、広田照幸「近代知の成立と制度化」(歴史学研究会・日本史研究会編『近代の成立』日本史講座第8巻、東京大学出版会、2005年、251~275頁)でした。同著の性格に基づくものですが、同論文は、研究論文というか、斬新な視点から先行研究をまとめたもの、という感があります。さて、同論文が問題としているのは、日本の近代化初期段階における「知」に関する課題として、伝統的な教養の体系および伝統的な教養層、すなわち漢学の素養とそれを身に付けた集団が存在しながら、それが新しく必要とされる「知」や「知識人」とズレていた、という事態を問題にしています。同論文では、この事態を「知のミスマッチ」と名付けています。
広田論文は、日本の近代化初期における「知のミスマッチ」という問題を、高等教育機関の入学者選抜、すなわち官私立の大学・専門学校等の入学試験の制度化過程において見いだそうとしています。この問題と方法のつながり、実は私には正直言ってわかるようでわかりにくいのですが、中身を読めば何となくわかりました。
明治前半期の高等教育機関でとられた「知のミスマッチ」を埋めるやり方は、大きく2つありました。第1のやり方は、本科より下級に予科などの普通学を教える課程を設置し、そこでの教育を受けた上で本科を学ばせるというやり方です。第2のやり方は、伝統的な知に依拠して、いくつかの科目を試験するやり方です。第2のやり方は、さらに2種類あります。一つは、伝統的な知すなわち漢学の試験だけで合否を決めるタイプ。もう一つは、漢学的な読書・作文の試験と若干の西洋的な知識を問うタイプで、こちらの方が1870年代~1880年代半ばにかけて一般的だったといいます。1880年代半ばまでは、高等教育機関やその予備課程の入学試験に合格するまで「どこで学んだか」は問題ではなく、入試をこなす「学力」があればよかったので、私塾が隆盛をほこり、青年たちは私塾や学校を遍歴するのが常でした。とくに、和漢文が入学試験で重視されていたため、漢学塾は洋学塾とならび、隆盛を誇ったのです。
ただ、明治19(1886)年の中学校令公布を境に、中等教育のカリキュラムや施設設備の制度化による教育水準の向上が企図されるようになりました。1900年代初頭ごろまでに、尋常中学校のカリキュラムにあわせて高等教育機関が入学者選抜の方法を変え、中学校を経由しないことが高等教育機関進学に不利になって、尋常中学校への就学要求が高まりました。そして、これは高等教育進学を目指す青年たちが習得すべき「知」が変化していくことも意味しました。
1886年~1900年代初頭(明治20年代~30年代)の時期は、高等教育入学に必要な「知」が、尋常中学校のカリキュラムに対応した科目に変化しました。すなわち、国語漢文・外国語・地理・歴史・数学・博物物理化学大意・図画・体操などの、中学校のカリキュラムに規定された「知」が求められるようになったのです。その帰結として、尋常中学校卒業生の無試験・特別試験の制度化が見られるようになり、不規則な就学を行ってきた者が高等教育機関進学の競争から排除されていきました(決定的な要因は1903年の専門学校令・専門学校入学者検定規定の公布)。
以上のことを明らかにした広田論文は、次の2点を提起しています。第1に、明治後期以降の中等以上の国民の「教養」の内実(高等教育進学をめざす誰もが共通に学んだ近代知)は、選抜場面で漢学的な知を押しのけて現れた、中学校で学ばれた普通学であったかもしれない、ということ。第2に、明治期のかなりの期間にわたり、旧来の「教養」たる漢学的知を有する社会層は、その知的資源を活かしつつ、新たな「教養層」=高等教育学歴の取得者に転身することが可能だった、ということ。
非常に読みやすい論文でした。さて、読後に残った疑問は、文中で「知」と「教養」が入り交じっているが、この二つの概念は交換可能なものなのか?ということ。そもそも、高等教育機関入学試験で求められた知識と「伝統的知」または「近代知」は同じものなのか?ということ。そういえば、この間読んだ中村著で、儒教的知と近代知についていろいろ語られてたな。また勉強します。