教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

日本の近代知における儒教知を問う

2006年11月04日 19時41分40秒 | 教育研究メモ
 今日は起床成功。朝食をとって登校。『日本史講義』を読む。10時半から運動。昼食は、学校に戻って友人Yと食べました。その後1時間ほど、某先生のデータ作成。最後に某学会投稿論文の続き。夕方、友人Yに車を出すよう頼まれていたので、目的地に送ってやる。それからもう一度研究室戻り、以下の論文をまとめた上で今日の仕事を終わらせました。

 今日の論文要旨は、中村春作「序」『江戸儒教と近代の「知」』(ぺりかん社、2002年、5~10頁)。ちょっと運動の疲れがたまっているようなので(笑)、今日は短い「序」をまとめるだけにとどめます。まとめ文は長くなりましたが(笑)。
 中村著は、日本における「国民国家」の発現と、そこにおける「儒学知」の変容・再構成の姿を明らかにすること、をテーマにしています。中村著によると、この20年ほど、世界は、近代における創造物である「伝統」の強制力・認識枠組に捕らわれつつ、経済・情報が国境を越えて多文化化・文化複合化が進む中で、明確な見通しを得ることができないでいるにも関わらず、エスノ・ナショナリズムという新しいナショナリズムや、内なるナショナリズムとしての国民意識をいかに制御するかが、国家・個人の重要な問題になっています。このような問題がある中で思想史研究が果たすべき役割は、近代の緒言説の「創造=想像」性を明らかにし、その拘束性を如何に緩和し、自らを取り囲む知的諸制度の姿を鮮明にするところにあります。我々現代人の考え方を規定する「近代知」(我々の生きる近代を構成する知的諸制度)は、19世紀以降に新しく造られた「国民」としての自己認識・他者認識に深く関わり、国民国家の成立と深く関わっています。中村著は、このような意味で、日本の国民国家-近代知の形成過程における儒学知の再編問題を、現代的なテーマであると位置づけています。
 中村著は、日本と東アジアにおけるナショナリズムの発現は、外(西洋)からの緊急課題として共有した問題であり、西洋の枠組みを移植かつ対抗するために発生し、とくに東アジアにおいては日本を一つの媒介として伝播したと捉えます。発現されたナショナリズムはそれぞれ異なる姿をとりましたが、東アジアにおけるナショナリズム=国民国家形成の運動は、共通する枠組みの元に展開したというのです。中村著は、この共通の枠組みを重要視し、各国の個別性・特殊性に還元されない視野で思想史研究を目指して、「東アジア思想史」という枠組みを提示しようとしています。これは、19世紀東アジアの思想世界を今日の近代批判の視座からあらためて主題化し、東アジア知識人社会における知的経験を「国民化と知の再編」という問題構成から批評していこうという研究領域のようです。このような研究領域を設定した上で中村著が取り上げたのが、国民国家化と対応した日本における儒学知の再編問題であるというわけです。
 「序」では、以上のという問題設定の上で、次のような下位の問題が示されています。近現代東アジア世界で「知識人」がそれまでの儒教をいかに再編しつつ自立を果たしたのか。19~20世紀にかけて、「知識人」を主な担い手とした国民像の絶えざる構築・再構築において、儒教が、いかに使われ、いかなる新たな意味を派生させたか。
コメント
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