今日は運動してから登校。昼食をとるついでに図書館に寄って、『教育公報』(明治29年末~明治40年前半までの帝国教育会の機関誌)を借りてくる。机に向かってまず、某先生のデータ作成をする。これは、何も考えずデータを入力するだけなので、集中力を高めることができるため、一日の最初の仕事として持ってこいの仕事なのです。30分ほどデータ作成をした後、学会発表原稿にとりかかる。ようやく、今月末の中国四国教育学会大会での発表にむけて準備を始めました。『教育公報』を借りてきたのもその準備のため。ほとんど資料のタイプ打ちではありますが、かなり進みました。論文構成はだいたいできているので、スイスイ進むと思っています(たぶん)。
『教育公報』は雑誌扱いなので要当日返却の資料。夕方暗くなった頃、『教育公報』を図書館に返却して、ついでに周辺資料をコピーした後、研究室に戻って『日本史講義』を読書。このところ寝坊が続いて、午前中早くに予定している読書ができていないため、いいかげん読み進めたかったのです。今日読んだのは第10章の小松裕「民権運動と社会主義」でした。明治期の自由民権運動・足尾鉱毒反対運動・社会主義運動を天皇制下における民主主義確立の問題として論じた論文ですが、従来評価されてきた実力行使・急進路線(過激な反政府的運動)ではなく「漸進主義的路線」を再評価しようという特徴ある論文です。スイスイ読めて、興味深く読ませてもらいました。
読書後、昨日に続いて今日も論文のまとめをしようと試みる。今日は中村春作「『知識人』論の視界」(『江戸儒教と近代の「知」』第2章、ぺりかん社、2002年、45~96頁)をまとめるつもりでしたが、これまた昨日に続いて困難続き。そもそも、この第2章は3つの初出論文をまとめたものです(第1章は2つ)。まとめるには、細部にとらわれることを避け、大づかみにまとめていくしかないようです。この章の内容は、おおまかには以下の通り。
知識人とは、意味を作り出し自己実現する個人という近代社会における特権的存在であり、国民と同一化し、国民を内部から構成して語る近代に依存した存在です。そのため、知識人とは何かを問うことは、国民国家の問い直しや近代知への内省に、密接に関わることになります。知識人という社会的存在や知識人としての自己認識の、日本における成立を問うには、明治初期啓蒙知識人の成立という問題が視野に入ってきます。明治以前の日本には、教養の資格証明に似た社会的身分に相当する知識人は存在せず、ただ否定的存在としての「儒者」が存在しました。そのため、明治初期の啓蒙知識人は、儒教・儒者を否定し、新たに「学者の職分」(福沢諭吉)や「学術」(西周)といった概念を構築して、自らの社会的存在と自己認識を形成していきました。明治初期において儒教はこのように否定されていきましたが、西周のように、「真理」に至る方法を欠如したものとして儒教を否定しつつ、自立領域として細分化された知(小知・大知)の一つとして、儒教知を再編していく動きもありました。また、明治初期の啓蒙知識人は、知識人としての社会的存在や自己認識の確立が国民の創出に関与することを、自明のごとくに捉えていました。明治初期における知識人論を検討することによって、日本における国民や近代知の形成において明治以前の儒教の重要性を確認することができます。
とまぁ、おおまかにまとめてみました。最初は細部にこだわってまとめていたのですが、あやうく昨日の二の舞になるところでした(笑)。いや、ここまでまとめるのに3時間かかったので、すでに二の舞になってたか(笑)。
『教育公報』は雑誌扱いなので要当日返却の資料。夕方暗くなった頃、『教育公報』を図書館に返却して、ついでに周辺資料をコピーした後、研究室に戻って『日本史講義』を読書。このところ寝坊が続いて、午前中早くに予定している読書ができていないため、いいかげん読み進めたかったのです。今日読んだのは第10章の小松裕「民権運動と社会主義」でした。明治期の自由民権運動・足尾鉱毒反対運動・社会主義運動を天皇制下における民主主義確立の問題として論じた論文ですが、従来評価されてきた実力行使・急進路線(過激な反政府的運動)ではなく「漸進主義的路線」を再評価しようという特徴ある論文です。スイスイ読めて、興味深く読ませてもらいました。
読書後、昨日に続いて今日も論文のまとめをしようと試みる。今日は中村春作「『知識人』論の視界」(『江戸儒教と近代の「知」』第2章、ぺりかん社、2002年、45~96頁)をまとめるつもりでしたが、これまた昨日に続いて困難続き。そもそも、この第2章は3つの初出論文をまとめたものです(第1章は2つ)。まとめるには、細部にとらわれることを避け、大づかみにまとめていくしかないようです。この章の内容は、おおまかには以下の通り。
知識人とは、意味を作り出し自己実現する個人という近代社会における特権的存在であり、国民と同一化し、国民を内部から構成して語る近代に依存した存在です。そのため、知識人とは何かを問うことは、国民国家の問い直しや近代知への内省に、密接に関わることになります。知識人という社会的存在や知識人としての自己認識の、日本における成立を問うには、明治初期啓蒙知識人の成立という問題が視野に入ってきます。明治以前の日本には、教養の資格証明に似た社会的身分に相当する知識人は存在せず、ただ否定的存在としての「儒者」が存在しました。そのため、明治初期の啓蒙知識人は、儒教・儒者を否定し、新たに「学者の職分」(福沢諭吉)や「学術」(西周)といった概念を構築して、自らの社会的存在と自己認識を形成していきました。明治初期において儒教はこのように否定されていきましたが、西周のように、「真理」に至る方法を欠如したものとして儒教を否定しつつ、自立領域として細分化された知(小知・大知)の一つとして、儒教知を再編していく動きもありました。また、明治初期の啓蒙知識人は、知識人としての社会的存在や自己認識の確立が国民の創出に関与することを、自明のごとくに捉えていました。明治初期における知識人論を検討することによって、日本における国民や近代知の形成において明治以前の儒教の重要性を確認することができます。
とまぁ、おおまかにまとめてみました。最初は細部にこだわってまとめていたのですが、あやうく昨日の二の舞になるところでした(笑)。いや、ここまでまとめるのに3時間かかったので、すでに二の舞になってたか(笑)。