鼻づまりで呼吸が苦しいものの、体調はだいぶよくなりました。今日はまず運動へ。先日2日間休んだだけで、体重が先週のスタート時のものに戻っている点に、まずショックを受ける。…ここでくじけたら、さらなるリバウンドが待ってるだけだぃ! がんばろう!
運動後、登校。『教育公報』を借りて、昼食をすませた後、今月末の学会発表の準備。夕方暗くなったころ、『教育公報』に目を通して簡単な年表を作る作業が、ようやく終了。後々すぐに目を通せるように資料をコピーをした後、『公報』を図書館に返却。時間的にも集中力的にも丁度良かったので、そろそろやっておきたかった論文まとめを、久しぶりにやりました。
今日は中村春作「『均質な知』と江戸の儒教」『江戸儒教と近代の「知」』第三章(ぺりかん社、2002年)をまとめます。この章は、明治初期知識人の形成への契機を、19世紀初頭以降の「素読」の制度化に見いだすものです。以下、まとめていきます。
明治初期知識人における漢学としての儒教擁護は、明治中期以降に「国家教学」としての儒教再構築の動きへと発展していく大きな問題です。明治初年啓蒙知識人は、儒教批判を通して「知」を自立させようとしました。その一方、中村正直(敬宇、1832~91)のように、儒教ではなく「漢学」として、洋学を学ぶ基礎として儒教を擁護する者もいました。中村正直は、儒教の重要性をいう根拠として、明治初期啓蒙知識人の多くが文化・文政・天保(1804~1844)の頃に生まれ、明和・安永(1764~1781)の頃に生まれた学者に入門したことを挙げています。この指摘は、さらに明治初期啓蒙知識人が寛政期(1789~1801)以降の儒学知的制度・習慣において実際に教育を受け、彼等の学問的素地を養ったことも意味します。そのため、明治以降の近代知と儒教の関係をさぐるに際には、寛政期以降の「知」の変容が問題になるのです。
中村正直は、洋学学習における儒教の重要性をいう際、「素読」による学問的素養の形成過程を重要視しました。中村以後の近代的知識人たちも、素読を、自らの教養を構成し、または明治期の教養的世代の漢文的教養を構成した重要要件として、身体的な記憶とともに回顧しています。江戸後期の素読は、規律的訓練的な身体的了解を中心的要素とした、読まれるべき基本テキスト(『孝経』や四書五経)が定まって初めて成り立つ教育法・読書法です。漢文テキストを漢文訓読式で読むか現代中国音で読むか、という問題は、古代から血肉化してきた日本文化としての知的伝統にどう対処し、同時に「中国」の異文化性をいかに意識するかという問題に関わる、漢文研究の大問題です。すなわち、江戸期における素読という読書形式を取り上げるには、どのような思想史的文脈の下に成立したかを問題としなくてはなりません。
前田愛は、近代前・近代初期の読者像を音読による共同体の中に見いだしました。素読=音読による共同的感覚の醸成、すなわち近代日本(明治初期?)の知識人の連帯感情の形成は、日常のことばとは異なる「精神のことば」を身体的・規律訓練的な学習を通して、地域性や出身階層の差異を越えた精神的同質性を確認することを意味します。なお、啓蒙知識人たちは国民像を内から構成していった存在と考えられ、知識人たち内部の教養形成の問題は、日本における国民像創出にかかわる問題です。明治初期啓蒙知識人の精神的同質性これこそ、『想像の共同体』における、イメージとして想像された国民的自己同一性と通底するものであり、それを支えたものが素読なのです。
素読が制度として定着したのは、寛政異学の禁(1790年)以後のことです。この時期以後、素読吟味・学問吟味のような定型化した試験制度の成立、かつ功利的学習観に基づく学習熱が発生、といった状況と対応して、素読の制度化は進み、江戸湯島聖堂(昌平黌)から地方在村知識人層に至るまで広範に普及しました。また、寛政期以後は、徂徠没後に展開された「反徂徠」の言説、すなわち徂徠における道徳説の不在、古文辞学の難解さ、文人趣味への批判が幅広く展開されました。寛政期以後の昌平黌に始まる素読の制度化は、徂徠派の儒学内容を拒絶し、朱子学をあらためて公式化することを目指し、句点の切り方や送りがなをも固定化して、読み方を公式化していきました。素読の制度化によって公式化・平準化された技法は、交換可能な要素となって全国に普及し、共有できる読書体験が形成・再生されていきました。そのため、幕末・明治期の知識人たちは、古代中国の経典を自らの教養として内面化し、共有されて、西洋の学問とのせめぎあいの中に新たな意味を獲得していくことになったのです。
素読は、荻生徂徠が提示した古代中国経典の読み方の革新への反発を契機として、制度化が進められました。徂徠学は、常に限定された言語によって提示された経典を、中国ではない「東夷」日本において、遙かな時を隔てて読む、という行為の意味を問い直したものでした。反徂徠派は、徂徠のこの点について批判し、和語によって中国と日本の言語間の断絶を無化し、それを通じて囚人に共有されるものとしての「文」や「訓法」を作ろうとしました。徂徠学における経典の読み方に関する問題意識は、反徂徠派(反古文辞学)の言説においても異なる位相で引き継がれ、より拡大された知的大衆にふさわしい形式と内実を備えたものへ深化されていったのです。これ以後、中国古典文は、詳細な解釈の蓄積や和訓を施され、「国文化」される方向へ向かい、「漢文」が成立していきます。
同章は、以上のことをふまえて次のような仮説を述べています。すなわち、寛政期(1789~1801)以降、徂徠学・反徂徠派および朱子学正学化の運動をめぐって、正当的テキスト(経典)に相応した「正しい読み」というものが社会的に構成され、各地の知識階層に普及していく中、近代知をも予想される均質な知が形成され、明治期における儒者から近代知識人への飛躍の土台が築かれたのではないか、という仮説です。非常に興味深い仮説です。さらなる学習意欲がかきたてられました。
第1章・第2章の内容は、私の読む力が足りないが故にチンプンカンプンだった一方で、この章の内容といいたいことはよくわかりました。著者の中村春作氏は、もともと荻生徂徠の研究者だそうです。さすが、徂徠の話はこなれているわけで、わかりやすいわけですね~。
運動後、登校。『教育公報』を借りて、昼食をすませた後、今月末の学会発表の準備。夕方暗くなったころ、『教育公報』に目を通して簡単な年表を作る作業が、ようやく終了。後々すぐに目を通せるように資料をコピーをした後、『公報』を図書館に返却。時間的にも集中力的にも丁度良かったので、そろそろやっておきたかった論文まとめを、久しぶりにやりました。
今日は中村春作「『均質な知』と江戸の儒教」『江戸儒教と近代の「知」』第三章(ぺりかん社、2002年)をまとめます。この章は、明治初期知識人の形成への契機を、19世紀初頭以降の「素読」の制度化に見いだすものです。以下、まとめていきます。
明治初期知識人における漢学としての儒教擁護は、明治中期以降に「国家教学」としての儒教再構築の動きへと発展していく大きな問題です。明治初年啓蒙知識人は、儒教批判を通して「知」を自立させようとしました。その一方、中村正直(敬宇、1832~91)のように、儒教ではなく「漢学」として、洋学を学ぶ基礎として儒教を擁護する者もいました。中村正直は、儒教の重要性をいう根拠として、明治初期啓蒙知識人の多くが文化・文政・天保(1804~1844)の頃に生まれ、明和・安永(1764~1781)の頃に生まれた学者に入門したことを挙げています。この指摘は、さらに明治初期啓蒙知識人が寛政期(1789~1801)以降の儒学知的制度・習慣において実際に教育を受け、彼等の学問的素地を養ったことも意味します。そのため、明治以降の近代知と儒教の関係をさぐるに際には、寛政期以降の「知」の変容が問題になるのです。
中村正直は、洋学学習における儒教の重要性をいう際、「素読」による学問的素養の形成過程を重要視しました。中村以後の近代的知識人たちも、素読を、自らの教養を構成し、または明治期の教養的世代の漢文的教養を構成した重要要件として、身体的な記憶とともに回顧しています。江戸後期の素読は、規律的訓練的な身体的了解を中心的要素とした、読まれるべき基本テキスト(『孝経』や四書五経)が定まって初めて成り立つ教育法・読書法です。漢文テキストを漢文訓読式で読むか現代中国音で読むか、という問題は、古代から血肉化してきた日本文化としての知的伝統にどう対処し、同時に「中国」の異文化性をいかに意識するかという問題に関わる、漢文研究の大問題です。すなわち、江戸期における素読という読書形式を取り上げるには、どのような思想史的文脈の下に成立したかを問題としなくてはなりません。
前田愛は、近代前・近代初期の読者像を音読による共同体の中に見いだしました。素読=音読による共同的感覚の醸成、すなわち近代日本(明治初期?)の知識人の連帯感情の形成は、日常のことばとは異なる「精神のことば」を身体的・規律訓練的な学習を通して、地域性や出身階層の差異を越えた精神的同質性を確認することを意味します。なお、啓蒙知識人たちは国民像を内から構成していった存在と考えられ、知識人たち内部の教養形成の問題は、日本における国民像創出にかかわる問題です。明治初期啓蒙知識人の精神的同質性これこそ、『想像の共同体』における、イメージとして想像された国民的自己同一性と通底するものであり、それを支えたものが素読なのです。
素読が制度として定着したのは、寛政異学の禁(1790年)以後のことです。この時期以後、素読吟味・学問吟味のような定型化した試験制度の成立、かつ功利的学習観に基づく学習熱が発生、といった状況と対応して、素読の制度化は進み、江戸湯島聖堂(昌平黌)から地方在村知識人層に至るまで広範に普及しました。また、寛政期以後は、徂徠没後に展開された「反徂徠」の言説、すなわち徂徠における道徳説の不在、古文辞学の難解さ、文人趣味への批判が幅広く展開されました。寛政期以後の昌平黌に始まる素読の制度化は、徂徠派の儒学内容を拒絶し、朱子学をあらためて公式化することを目指し、句点の切り方や送りがなをも固定化して、読み方を公式化していきました。素読の制度化によって公式化・平準化された技法は、交換可能な要素となって全国に普及し、共有できる読書体験が形成・再生されていきました。そのため、幕末・明治期の知識人たちは、古代中国の経典を自らの教養として内面化し、共有されて、西洋の学問とのせめぎあいの中に新たな意味を獲得していくことになったのです。
素読は、荻生徂徠が提示した古代中国経典の読み方の革新への反発を契機として、制度化が進められました。徂徠学は、常に限定された言語によって提示された経典を、中国ではない「東夷」日本において、遙かな時を隔てて読む、という行為の意味を問い直したものでした。反徂徠派は、徂徠のこの点について批判し、和語によって中国と日本の言語間の断絶を無化し、それを通じて囚人に共有されるものとしての「文」や「訓法」を作ろうとしました。徂徠学における経典の読み方に関する問題意識は、反徂徠派(反古文辞学)の言説においても異なる位相で引き継がれ、より拡大された知的大衆にふさわしい形式と内実を備えたものへ深化されていったのです。これ以後、中国古典文は、詳細な解釈の蓄積や和訓を施され、「国文化」される方向へ向かい、「漢文」が成立していきます。
同章は、以上のことをふまえて次のような仮説を述べています。すなわち、寛政期(1789~1801)以降、徂徠学・反徂徠派および朱子学正学化の運動をめぐって、正当的テキスト(経典)に相応した「正しい読み」というものが社会的に構成され、各地の知識階層に普及していく中、近代知をも予想される均質な知が形成され、明治期における儒者から近代知識人への飛躍の土台が築かれたのではないか、という仮説です。非常に興味深い仮説です。さらなる学習意欲がかきたてられました。
第1章・第2章の内容は、私の読む力が足りないが故にチンプンカンプンだった一方で、この章の内容といいたいことはよくわかりました。著者の中村春作氏は、もともと荻生徂徠の研究者だそうです。さすが、徂徠の話はこなれているわけで、わかりやすいわけですね~。