教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

寒いぞっ!

2006年11月15日 20時46分25秒 | Weblog
 風邪による鼻づまりのため、久しぶりに無呼吸の症状が出てしまい、目が覚めても起きられず、そのまま昼起きに。先週の減量に併せてCPAPの圧を下げたのも、悪い方へ働いてしまったようです。ちょっと起床が遅すぎたので、今日の運動は断念。今週は土曜日に京都へ行かないといけないので、運動できる日数も少ないし、今週の減量計画は現状維持に切り替えた方がいいかなぁ… ともかくひどいリバウンドだけは気をつけないといけないことは、間違いない。リバウンドの兆候(必要以上の食欲増進、体重の増加)は出ているので、ヤバイし。
 登校後、今月末の学会発表の内容を考えながら、教育勅語や戊申詔書関係の先行研究を読む。それから学会発表レジュメの作成にとりかかる。すっきりした内容を、スムーズに書き進められそうです。
 今日唯一困ったことは、私が詰めてる教育学講座第二資料室が寒すぎて、夕方すぎぐらいから手がかじかんでしまい、指がうまく動かなくなってきたこと(笑)。もうストーブの出番か… 指が動きにくくて気持ち悪いし、風邪をこじらせてはいけないので、中村著の機能の続きをまとめるのはまた後日(たぶん明日)にします。明日は寒さ対策を万全にして生活しようっと。
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明治初期の知を基礎づくった「素読」

2006年11月14日 21時55分18秒 | 教育研究メモ
 鼻づまりで呼吸が苦しいものの、体調はだいぶよくなりました。今日はまず運動へ。先日2日間休んだだけで、体重が先週のスタート時のものに戻っている点に、まずショックを受ける。…ここでくじけたら、さらなるリバウンドが待ってるだけだぃ! がんばろう!
 運動後、登校。『教育公報』を借りて、昼食をすませた後、今月末の学会発表の準備。夕方暗くなったころ、『教育公報』に目を通して簡単な年表を作る作業が、ようやく終了。後々すぐに目を通せるように資料をコピーをした後、『公報』を図書館に返却。時間的にも集中力的にも丁度良かったので、そろそろやっておきたかった論文まとめを、久しぶりにやりました。
  
 今日は中村春作「『均質な知』と江戸の儒教」『江戸儒教と近代の「知」』第三章(ぺりかん社、2002年)をまとめます。この章は、明治初期知識人の形成への契機を、19世紀初頭以降の「素読」の制度化に見いだすものです。以下、まとめていきます。
 明治初期知識人における漢学としての儒教擁護は、明治中期以降に「国家教学」としての儒教再構築の動きへと発展していく大きな問題です。明治初年啓蒙知識人は、儒教批判を通して「知」を自立させようとしました。その一方、中村正直(敬宇、1832~91)のように、儒教ではなく「漢学」として、洋学を学ぶ基礎として儒教を擁護する者もいました。中村正直は、儒教の重要性をいう根拠として、明治初期啓蒙知識人の多くが文化・文政・天保(1804~1844)の頃に生まれ、明和・安永(1764~1781)の頃に生まれた学者に入門したことを挙げています。この指摘は、さらに明治初期啓蒙知識人が寛政期(1789~1801)以降の儒学知的制度・習慣において実際に教育を受け、彼等の学問的素地を養ったことも意味します。そのため、明治以降の近代知と儒教の関係をさぐるに際には、寛政期以降の「知」の変容が問題になるのです。
 中村正直は、洋学学習における儒教の重要性をいう際、「素読」による学問的素養の形成過程を重要視しました。中村以後の近代的知識人たちも、素読を、自らの教養を構成し、または明治期の教養的世代の漢文的教養を構成した重要要件として、身体的な記憶とともに回顧しています。江戸後期の素読は、規律的訓練的な身体的了解を中心的要素とした、読まれるべき基本テキスト(『孝経』や四書五経)が定まって初めて成り立つ教育法・読書法です。漢文テキストを漢文訓読式で読むか現代中国音で読むか、という問題は、古代から血肉化してきた日本文化としての知的伝統にどう対処し、同時に「中国」の異文化性をいかに意識するかという問題に関わる、漢文研究の大問題です。すなわち、江戸期における素読という読書形式を取り上げるには、どのような思想史的文脈の下に成立したかを問題としなくてはなりません。
 前田愛は、近代前・近代初期の読者像を音読による共同体の中に見いだしました。素読=音読による共同的感覚の醸成、すなわち近代日本(明治初期?)の知識人の連帯感情の形成は、日常のことばとは異なる「精神のことば」を身体的・規律訓練的な学習を通して、地域性や出身階層の差異を越えた精神的同質性を確認することを意味します。なお、啓蒙知識人たちは国民像を内から構成していった存在と考えられ、知識人たち内部の教養形成の問題は、日本における国民像創出にかかわる問題です。明治初期啓蒙知識人の精神的同質性これこそ、『想像の共同体』における、イメージとして想像された国民的自己同一性と通底するものであり、それを支えたものが素読なのです。
 素読が制度として定着したのは、寛政異学の禁(1790年)以後のことです。この時期以後、素読吟味・学問吟味のような定型化した試験制度の成立、かつ功利的学習観に基づく学習熱が発生、といった状況と対応して、素読の制度化は進み、江戸湯島聖堂(昌平黌)から地方在村知識人層に至るまで広範に普及しました。また、寛政期以後は、徂徠没後に展開された「反徂徠」の言説、すなわち徂徠における道徳説の不在、古文辞学の難解さ、文人趣味への批判が幅広く展開されました。寛政期以後の昌平黌に始まる素読の制度化は、徂徠派の儒学内容を拒絶し、朱子学をあらためて公式化することを目指し、句点の切り方や送りがなをも固定化して、読み方を公式化していきました。素読の制度化によって公式化・平準化された技法は、交換可能な要素となって全国に普及し、共有できる読書体験が形成・再生されていきました。そのため、幕末・明治期の知識人たちは、古代中国の経典を自らの教養として内面化し、共有されて、西洋の学問とのせめぎあいの中に新たな意味を獲得していくことになったのです。
 素読は、荻生徂徠が提示した古代中国経典の読み方の革新への反発を契機として、制度化が進められました。徂徠学は、常に限定された言語によって提示された経典を、中国ではない「東夷」日本において、遙かな時を隔てて読む、という行為の意味を問い直したものでした。反徂徠派は、徂徠のこの点について批判し、和語によって中国と日本の言語間の断絶を無化し、それを通じて囚人に共有されるものとしての「文」や「訓法」を作ろうとしました。徂徠学における経典の読み方に関する問題意識は、反徂徠派(反古文辞学)の言説においても異なる位相で引き継がれ、より拡大された知的大衆にふさわしい形式と内実を備えたものへ深化されていったのです。これ以後、中国古典文は、詳細な解釈の蓄積や和訓を施され、「国文化」される方向へ向かい、「漢文」が成立していきます。
 同章は、以上のことをふまえて次のような仮説を述べています。すなわち、寛政期(1789~1801)以降、徂徠学・反徂徠派および朱子学正学化の運動をめぐって、正当的テキスト(経典)に相応した「正しい読み」というものが社会的に構成され、各地の知識階層に普及していく中、近代知をも予想される均質な知が形成され、明治期における儒者から近代知識人への飛躍の土台が築かれたのではないか、という仮説です。非常に興味深い仮説です。さらなる学習意欲がかきたてられました。
  
 第1章・第2章の内容は、私の読む力が足りないが故にチンプンカンプンだった一方で、この章の内容といいたいことはよくわかりました。著者の中村春作氏は、もともと荻生徂徠の研究者だそうです。さすが、徂徠の話はこなれているわけで、わかりやすいわけですね~。
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クラクラ、フラフラ

2006年11月13日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は全休。
 休みとはいっても、風邪で体がだるくてしんどい一日でした。昼過ぎからDVDを借りに行ったのですが(最近『銀河英雄伝説』にはまってしまった(笑))、探しているだけでクラクラ、フラフラの状態になってくる。ちゃんと休もうと誓って、帰りました。
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日本音楽とは。

2006年11月12日 16時16分15秒 | Weblog
 起床一番、思ったこと。「む…からだがおもい」
 いや、体重は順調に減ってますよ(笑)。運動後に計った体重(水分が大量に抜けるので最少の体重)は4㎏以上減りました。朝一番に計った体重なら、約3㎏ほど減です。体が重い原因は、鼻づまりやノドの軽い腫れ、軽いくしゃみ鼻水が症状として出ていることから、風邪をこじらしたためらしい。無理して悪くしてもいけないので、今日は運動を休むことにしました。
 でも、研究の方は、明日休日にする予定なので、やっておきたい。重いからだを引きずって登校しましたが、当然やる気はおきない。やっぱ今日はダメか…
 何もしないのは安心できないので、昨日ホームページにアップした原稿を見直す。文章がおかしいままだと、さすがにこれは恥ずかしいので、なんとか手を着けることができました。見直したところ、思った通り、何を書いてるのかわかりにくい、文意が通らない、などなど、問題続出。やっぱり見直してよかった。ということで、全体的にだるくてボンヤリした頭を無理矢理回転させて、趣味の方のHP邦楽とは。」の1章「日本音楽とは。」を書き直す。だいぶマシになったか。時間があったら読んでみてください、みなさん。
 HPの更新が完了した後も、やはり体調は悪いまま。もうらちがあかないので、本だけ持って帰ろう。

 なお、12月2日(土)18時より、東広島市のアザレアホールで、広島大学邦楽部の定期演奏会があります。近郊にお住みでお時間がある方は聴きにいってあげてくだされ!
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さむい、定演、振り返り、日本音楽。

2006年11月11日 21時30分08秒 | Weblog
 午前中は雨。雨で空気が洗われるので、寒くなって鮮やかさが増した、紅葉の美しさに驚く。昼過ぎ、雨は上がり、雲間から少しずつ青空が見える。この数日、強い風が吹くけれど、今日もやっぱり強い風が吹きはじめた。頭に、晩秋、という言葉が浮かぶ。
 うぅ~、寒っ!
 冬になるのはやめてー(笑)

 そういえば、広島大学邦楽部の後輩から、定演の宣伝してください、と頼まれました。今年の広島大学邦楽部定期演奏会は、2006年12月2日(火)、サンスクエア・東広島市市民文化センター3Fアザレアホール(JR西条駅から徒歩5分?くらい。近くにある東広島市中央公民館とお間違えなく)にて17:30開場・18:00開演、だそうです。しかし、何の曲目をやるかも教えずに宣伝してくれだなんて、困ったヤツだ(笑)。まぁ、箏と三味線と尺八を演奏するのは確実です(笑)。後ほど資料を用意してくれているらしいので、手に入れたらまた改めて宣伝します。

 今日は、朝登校。学校で学振(日本学術振興会)の所得税関係の書類を作った後、運動へ。ああ、学振(というか元は国のお金なので、本当は国民の皆様)に生活支えてもらうのも来年3月で終わりなのだなぁ。3年間、研究者としてかなり成長させてもらったと思う。バイトしながらでは絶対にできない、恵まれた研究生活だったな。ありがとうございました。いつになるかわからないけど、いつか必ず、学問上で恩は返します。
 運動後、郵便を出して登校。広大生協でコピー。ついでに文庫本を3冊買う。最初は何も買うつもりはなかったのですが、小泉文夫『日本の音-世界のなかの日本音楽』(平凡社ライブラリー、平凡社、1994年)を見つけ、つい買ってしまいました。この本は元々1977年に青土社から刊行されたもの。今年の1月、ある仕事を頼まれて、77'年版の方を大学図書館で借りて熟読したものです。面白かったのでいつか古本屋で買おうと思い、そのままにしていたところ、今日たまたま文庫本で出ていたことに初めて気づいたわけです(笑)。とりあえず、1月の仕事をするにあたってブログにあれこれ書いたものをHPにアップしておきました。久しぶりのHP更新です(笑)。ちなみに、HP開設当初から項目を設定していたにもかかわらず、内容がなくて開くことができなかった、趣味の方の「邦楽とは」のページが、開設2年目にして初めて開くようになりました(笑)。
 『教育公報』を借りて研究室へ戻り、月末の学会発表の準備。『教育公報』は雑誌扱い・要当日返却なので、16時半までに返さなくてはならない。残念ながら、準備はほとんど進みませんでした。でも、内容の拡がりはかなり想像できるようになってきました。来週には本気にならないとなぁ。
 公報返却後、読書やらまとめやらをしようと思っていましたが、体と心のエンジンがかからず。その上、ブログの内容も散漫に。最後に、晩飯も食わず、HPの更新をする。21時半ごろ、友人Yがメシに誘ってきたので今日はもう終わり。
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某学会投稿用論文、ほぼ完成

2006年11月10日 23時55分55秒 | Weblog
 今日も運動してから登校。少しずつだけど、確実に体重は落ちていってる。よし!
 登校後、まずは某先生のデータ作成を少し。そして、某学会投稿用論文にとりかかる。かなりノってきたため、夕方からコピーやら読書やらまとめやらを予定していたのですが、予定変更して論文執筆を続行。晩飯も食わずに、ついに日付変更まで突っ走ってしまいました。明日に響かなきゃいいんですが…
 とにかく、某学会投稿用論文、「おわりに」が残ってますが、ほぼ完成! 出来はかなり良し。新資料もあるわけだし。実証超重視の某学会に受け入れられるかどうかはわかりませんが、まぁ、そもそも「明治期大日本教育会・帝国教育会像の再構築」という題名である限りどうにもならないわけだし、ダメでもともと。設定した問題は私なりに解消できている、と思うので、どうなっても悔いはない。ま、後は「おわりに」と註書きを完成させて、文章を整え、文字数・行数を調節する仕事が残っているので、ここまで覚悟するのはまだ早いか(笑)。
 ちなみに、学会発表の際に主張した「教育研究団体」にはこだわりませんでした。もっと広く両教育会の歴史を捉え、かつ先行研究を尊重した結論になると思います。
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久々に論文執筆に集中

2006年11月09日 22時23分35秒 | 教育研究メモ
 今日は『日本史講座』を少し読んだ後、運動へ。その後登校。食事のついでに図書館へ行って本を借りる。明治期の「知」とは何か、大日本教育会・帝国教育会における研究活動を位置づけるための勉強用の本です。それから、本をコピー。15時少し過ぎ頃から、某学会投稿用論文にとりかかる。とりかかる前は気が乗らなかったのですが、気がつくと暗くなっていました。かなり進みました、って〆切までもう20日くらいしかないのね。学会発表の準備もあるし、タイヘンだ。
 論文執筆に集中して疲れてしまったので、今日の論文まとめは取りやめ。まあ、こっちの課題(明治期の「知」とは何か)は、12月中まででいいと思っているし。代わりに、読書。ようやく、歴史学研究会・日本史研究会編『近代の成立』(日本史講座第8巻、東京大学出版会、2005年)を読了。今日読んだのは、大門正克「農村問題と社会認識」でした。明治期の農村における近代的空間の形成と農民家族経営の変化について書かれた論文です。とくに1890年代頃から明治末までに進行した副業の内実転換(木綿から養蚕・桑作等へ)と、それに対応した農民家族における女性労働力の重要性向上について興味深く読みました。農民家族において女性がなくてはならない労働者となるにつれて、出産や子育ての季節サイクルに大きな影響を与えていったという指摘は、教育史的関心からも非常に興味深いなぁ。
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明治初年の知識人論における儒教

2006年11月08日 23時02分51秒 | 教育研究メモ
 今日は運動してから登校。昼食をとるついでに図書館に寄って、『教育公報』(明治29年末~明治40年前半までの帝国教育会の機関誌)を借りてくる。机に向かってまず、某先生のデータ作成をする。これは、何も考えずデータを入力するだけなので、集中力を高めることができるため、一日の最初の仕事として持ってこいの仕事なのです。30分ほどデータ作成をした後、学会発表原稿にとりかかる。ようやく、今月末の中国四国教育学会大会での発表にむけて準備を始めました。『教育公報』を借りてきたのもその準備のため。ほとんど資料のタイプ打ちではありますが、かなり進みました。論文構成はだいたいできているので、スイスイ進むと思っています(たぶん)。
 『教育公報』は雑誌扱いなので要当日返却の資料。夕方暗くなった頃、『教育公報』を図書館に返却して、ついでに周辺資料をコピーした後、研究室に戻って『日本史講義』を読書。このところ寝坊が続いて、午前中早くに予定している読書ができていないため、いいかげん読み進めたかったのです。今日読んだのは第10章の小松裕「民権運動と社会主義」でした。明治期の自由民権運動・足尾鉱毒反対運動・社会主義運動を天皇制下における民主主義確立の問題として論じた論文ですが、従来評価されてきた実力行使・急進路線(過激な反政府的運動)ではなく「漸進主義的路線」を再評価しようという特徴ある論文です。スイスイ読めて、興味深く読ませてもらいました。

 読書後、昨日に続いて今日も論文のまとめをしようと試みる。今日は中村春作「『知識人』論の視界」(『江戸儒教と近代の「知」』第2章、ぺりかん社、2002年、45~96頁)をまとめるつもりでしたが、これまた昨日に続いて困難続き。そもそも、この第2章は3つの初出論文をまとめたものです(第1章は2つ)。まとめるには、細部にとらわれることを避け、大づかみにまとめていくしかないようです。この章の内容は、おおまかには以下の通り。
 知識人とは、意味を作り出し自己実現する個人という近代社会における特権的存在であり、国民と同一化し、国民を内部から構成して語る近代に依存した存在です。そのため、知識人とは何かを問うことは、国民国家の問い直しや近代知への内省に、密接に関わることになります。知識人という社会的存在や知識人としての自己認識の、日本における成立を問うには、明治初期啓蒙知識人の成立という問題が視野に入ってきます。明治以前の日本には、教養の資格証明に似た社会的身分に相当する知識人は存在せず、ただ否定的存在としての「儒者」が存在しました。そのため、明治初期の啓蒙知識人は、儒教・儒者を否定し、新たに「学者の職分」(福沢諭吉)や「学術」(西周)といった概念を構築して、自らの社会的存在と自己認識を形成していきました。明治初期において儒教はこのように否定されていきましたが、西周のように、「真理」に至る方法を欠如したものとして儒教を否定しつつ、自立領域として細分化された知(小知・大知)の一つとして、儒教知を再編していく動きもありました。また、明治初期の啓蒙知識人は、知識人としての社会的存在や自己認識の確立が国民の創出に関与することを、自明のごとくに捉えていました。明治初期における知識人論を検討することによって、日本における国民や近代知の形成において明治以前の儒教の重要性を確認することができます。

 とまぁ、おおまかにまとめてみました。最初は細部にこだわってまとめていたのですが、あやうく昨日の二の舞になるところでした(笑)。いや、ここまでまとめるのに3時間かかったので、すでに二の舞になってたか(笑)。
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アジア論と儒教

2006年11月07日 21時10分21秒 | 教育研究メモ
 今日は起床失敗。運動してから登校しようと思ったら、体育館の臨時休館日でした。振替休日か?(笑)
 登校後、某先生のデータ作成。ついでに国立国会図書館近代デジタルライブラリーを利用して、史料のプリントアウト。少しずつしかプリントアウトできないので、ちょっと不便。でも、大量の明治期の史料が無料で使えるのは、とてもうれしい。思った以上に時間がかかってしまい、キリがいい時にはすでに暗くなってしまいました。データ作成ははかどったけども、予定の仕事はほとんどできず。また、次に読む予定の図書館の本をコピーする。
 最後に、中村著をまとめて今日は終わり。

 今日まとめる論文は、中村春作「いま、『儒教』を論じるということ」(『江戸儒教と近代の「知」』第1章、ぺりかん社、2002年、11~44頁)です。この章で論じているのは、現代の日本思想史研究者にとっての儒教論とは、近代における「アジア論」の中になぜどのように儒教論が現れるか、なぜ中国対日本を往復する形で儒教論が収束するのか、といことを問題にする論だ、ということです。
 現代のアジアでは、冷戦後のイデオロギーの権威喪失や情報・商品等の世界的同時化を受け、国民国家のあり方や国民としての自己認識が揺らいでいます。現代のアジア論は、アジア内部から出された西洋文明へのナショナリズム的な対抗言説として、非西洋的価値としての幻想的な儒教像を拠り所としてきました。とくに1980年代~90年代半ばにかけては、東アジア共通の議題であるかのように、「儒教文化圏」(または「漢字文化圏」)を中心概念として、議論が展開されました。儒教文化圏論争の特徴は、個人主義・法律万能主義が問題になった西欧社会に対する西欧知識人の問題意識を土台とした、「アジアの一貫性」というオリエンタリズムに基づいて発生したことです。儒教文化圏論の問題は、M・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と精神』のアジア版として、儒教を東アジア諸地域の社会的環境のなかに合目的的に読み込んでいった点にありました。儒教文化圏論の中では、儒教文化が東アジアの近代化・資本主義経済発展に効率よく働いた理由として扱われ(近代化を促進する儒教文化)、儒教文化の権威主義的政治システムや官僚制度の硬直化などの問題に対する視点は十分ではありませんでした。しかし、次第に儒教文化が一様でないことが確認され、儒教文化圏という概念は、文化類型の区分として適用可能な一般的モデルたりえないことが確認されていきました。
 儒教文化圏(漢字文化圏)論争は、文化類型論としては不十分な結果に終わりましたが、他方で2つの儒教研究の新しい視点を生み出した。第1の新視点は、従来のような「教義や学説の歴史的解読にみられる儒教」だけではなく、「当該社会の文化構造(社会制度)としての儒教」という視点でした。第2の新視点は、西欧からアジアを論じるのではなく、アジア内部からアジアを論じる視点でした。アジア内部からのアジア論は、冷戦後におけるイデオロギーの権威喪失や情報・商品等の世界的同時化を受けて国家・国民像の揺らぎに対応するため、自らの国家・自己認識の拠り所として儒教を論じていきました。云々…

 と、前半3分の2ほどをまとめましたが、どうしても本文では理解できない部分が出てきて2時間以上悩む。儒教文化圏論争において見られる、東アジア諸国における国家・国民像形成における儒教像の役割と、18~20世紀前半までの知識人たちの教養内部でなされた儒教の意味変容やコード変換およびその国民国家形成における役割とが、私の頭の中でどうしてもつながらないのですよ。近代国民国家形成期の儒教論が現代のアジア論まで歴史的・思想的につながるものだと言おうとしているのか、単に現代のアジア論の考察から18~20世紀の儒教研究の新しい視点・方法を得ようとしただけなのか。前者なら、同著では日中戦争中の東洋思想までしか論じていないので消化不良だし、後者なら、なぜ現代のアジア論と18~20世紀の儒教研究がつながるかわからないし。どちらでもないなら、私には読みとれないし。まぁ、儒教論とはこういう問題に関わる論なんだ!ということがわかれば、第2章以降は読めるんだけど…
 うぅ~。以前最初に読んだときもそうだったのですが、やっぱり今日も理解し切れなくて、思考がぐるぐるまわっています(苦笑)。もうダメ~…
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休日

2006年11月06日 23時55分55秒 | Weblog
 今日は予告通り休みました。
 少しだけ読書し、鳥海靖『日本の近代-国民国家の形成・発展と挫折』(放送大学教育振興会、1996年)を読みました。憲政・外交中心の内容で、今まで読んだ日本史の本と大きくは違わない内容かな、と一読しての感想。放送大学の教材なので、読みやすい。
 鼻づまり、軽い頭痛。風邪ひきはじめみたい。気をつけなきゃ。
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頭に入ってこない

2006年11月05日 18時13分41秒 | Weblog
 疲れがたまっているのか、今日は寝坊。なんとか体をおこして、運動してから登校しました。今日は本に書かれた文字が頭に入ってこない。さらに、中途半端な時間になっていたので、やることも中途半端に。教育思想史学会編『近代教育フォーラム』の書評を読むが、なかなか頭に入ってこないので苦労する。さらに、書評を読みながら、論文も書く。「ながら」なので、まともな文章ではない(笑)。いちおうアイデアではあるので、メモのつもりで書き付けておきました。
 体育館が休館なので明日を休日にしようと思って、今日はがんばるつもりでしたが、気持ちより体が先にダウンしてしまったようです(苦笑)。明日は精一杯ボケーっとして、心機一転しよう。
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日本の近代知における儒教知を問う

2006年11月04日 19時41分40秒 | 教育研究メモ
 今日は起床成功。朝食をとって登校。『日本史講義』を読む。10時半から運動。昼食は、学校に戻って友人Yと食べました。その後1時間ほど、某先生のデータ作成。最後に某学会投稿論文の続き。夕方、友人Yに車を出すよう頼まれていたので、目的地に送ってやる。それからもう一度研究室戻り、以下の論文をまとめた上で今日の仕事を終わらせました。

 今日の論文要旨は、中村春作「序」『江戸儒教と近代の「知」』(ぺりかん社、2002年、5~10頁)。ちょっと運動の疲れがたまっているようなので(笑)、今日は短い「序」をまとめるだけにとどめます。まとめ文は長くなりましたが(笑)。
 中村著は、日本における「国民国家」の発現と、そこにおける「儒学知」の変容・再構成の姿を明らかにすること、をテーマにしています。中村著によると、この20年ほど、世界は、近代における創造物である「伝統」の強制力・認識枠組に捕らわれつつ、経済・情報が国境を越えて多文化化・文化複合化が進む中で、明確な見通しを得ることができないでいるにも関わらず、エスノ・ナショナリズムという新しいナショナリズムや、内なるナショナリズムとしての国民意識をいかに制御するかが、国家・個人の重要な問題になっています。このような問題がある中で思想史研究が果たすべき役割は、近代の緒言説の「創造=想像」性を明らかにし、その拘束性を如何に緩和し、自らを取り囲む知的諸制度の姿を鮮明にするところにあります。我々現代人の考え方を規定する「近代知」(我々の生きる近代を構成する知的諸制度)は、19世紀以降に新しく造られた「国民」としての自己認識・他者認識に深く関わり、国民国家の成立と深く関わっています。中村著は、このような意味で、日本の国民国家-近代知の形成過程における儒学知の再編問題を、現代的なテーマであると位置づけています。
 中村著は、日本と東アジアにおけるナショナリズムの発現は、外(西洋)からの緊急課題として共有した問題であり、西洋の枠組みを移植かつ対抗するために発生し、とくに東アジアにおいては日本を一つの媒介として伝播したと捉えます。発現されたナショナリズムはそれぞれ異なる姿をとりましたが、東アジアにおけるナショナリズム=国民国家形成の運動は、共通する枠組みの元に展開したというのです。中村著は、この共通の枠組みを重要視し、各国の個別性・特殊性に還元されない視野で思想史研究を目指して、「東アジア思想史」という枠組みを提示しようとしています。これは、19世紀東アジアの思想世界を今日の近代批判の視座からあらためて主題化し、東アジア知識人社会における知的経験を「国民化と知の再編」という問題構成から批評していこうという研究領域のようです。このような研究領域を設定した上で中村著が取り上げたのが、国民国家化と対応した日本における儒学知の再編問題であるというわけです。
 「序」では、以上のという問題設定の上で、次のような下位の問題が示されています。近現代東アジア世界で「知識人」がそれまでの儒教をいかに再編しつつ自立を果たしたのか。19~20世紀にかけて、「知識人」を主な担い手とした国民像の絶えざる構築・再構築において、儒教が、いかに使われ、いかなる新たな意味を派生させたか。
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日本の近代化初期における知の問題

2006年11月03日 22時48分16秒 | 教育研究メモ
 昨日気になることを全部処理したので、今日はスッキリ新しい人生を歩み始めるような気分です。運動してから登校。10月31日から毎日運動を続けてますが、運動前の体重でも3㎏減です! 晩飯に食べ過ぎないよう気をつけるようになったところ、いい感じに減量の効果が出てきました。後はリバウンドの衝動に負けないことだな。これがなかなか大変で、今までの減量失敗+増量成功の原因なのです。
 昼食後、まず某先生のデータ作成。ついで『日本史講座』の一章を読む。さらに、某学会投稿論文を、気持ち書き進める。
 夕方から三味線仲間のTさんの紹介で、飲み会の席に三味線演奏に行く。会場は、「ホットカモ」(私が疲れるとよく行く、健康ランドのような温泉)の隣のお店でした。演奏して、食事も用意してくださっていたのでいただきました。食事をしながら、Tさんから学校9月スタート問題、教育基本法問題、学校の権威低下問題について聞かれたので、なんやかんやとしゃべりました。その後、温泉入って帰りました。
 帰った、といっても、研究室に(笑)。昨日からやる気が出てきたので(何とも皮肉だ)、今日はもうちょっとやりたかったのです。そして、博論の根本的テーマはやはり日本教育学史にならざるを得ないようなので、明治期の学問とは何だったか、研究とは何だったか、ということをハッキリしなくてはいけない。今日読んだ『日本史講座』の論文は、それに関係する内容でしたから、まとめておきたかったのです。ということで、久しぶりに「論文要旨」を書きます(笑)。
  
 今日読んだのは、広田照幸「近代知の成立と制度化」(歴史学研究会・日本史研究会編『近代の成立』日本史講座第8巻、東京大学出版会、2005年、251~275頁)でした。同著の性格に基づくものですが、同論文は、研究論文というか、斬新な視点から先行研究をまとめたもの、という感があります。さて、同論文が問題としているのは、日本の近代化初期段階における「知」に関する課題として、伝統的な教養の体系および伝統的な教養層、すなわち漢学の素養とそれを身に付けた集団が存在しながら、それが新しく必要とされる「知」や「知識人」とズレていた、という事態を問題にしています。同論文では、この事態を「知のミスマッチ」と名付けています。
 広田論文は、日本の近代化初期における「知のミスマッチ」という問題を、高等教育機関の入学者選抜、すなわち官私立の大学・専門学校等の入学試験の制度化過程において見いだそうとしています。この問題と方法のつながり、実は私には正直言ってわかるようでわかりにくいのですが、中身を読めば何となくわかりました。
 明治前半期の高等教育機関でとられた「知のミスマッチ」を埋めるやり方は、大きく2つありました。第1のやり方は、本科より下級に予科などの普通学を教える課程を設置し、そこでの教育を受けた上で本科を学ばせるというやり方です。第2のやり方は、伝統的な知に依拠して、いくつかの科目を試験するやり方です。第2のやり方は、さらに2種類あります。一つは、伝統的な知すなわち漢学の試験だけで合否を決めるタイプ。もう一つは、漢学的な読書・作文の試験と若干の西洋的な知識を問うタイプで、こちらの方が1870年代~1880年代半ばにかけて一般的だったといいます。1880年代半ばまでは、高等教育機関やその予備課程の入学試験に合格するまで「どこで学んだか」は問題ではなく、入試をこなす「学力」があればよかったので、私塾が隆盛をほこり、青年たちは私塾や学校を遍歴するのが常でした。とくに、和漢文が入学試験で重視されていたため、漢学塾は洋学塾とならび、隆盛を誇ったのです。
 ただ、明治19(1886)年の中学校令公布を境に、中等教育のカリキュラムや施設設備の制度化による教育水準の向上が企図されるようになりました。1900年代初頭ごろまでに、尋常中学校のカリキュラムにあわせて高等教育機関が入学者選抜の方法を変え、中学校を経由しないことが高等教育機関進学に不利になって、尋常中学校への就学要求が高まりました。そして、これは高等教育進学を目指す青年たちが習得すべき「知」が変化していくことも意味しました。
 1886年~1900年代初頭(明治20年代~30年代)の時期は、高等教育入学に必要な「知」が、尋常中学校のカリキュラムに対応した科目に変化しました。すなわち、国語漢文・外国語・地理・歴史・数学・博物物理化学大意・図画・体操などの、中学校のカリキュラムに規定された「知」が求められるようになったのです。その帰結として、尋常中学校卒業生の無試験・特別試験の制度化が見られるようになり、不規則な就学を行ってきた者が高等教育機関進学の競争から排除されていきました(決定的な要因は1903年の専門学校令・専門学校入学者検定規定の公布)。
 以上のことを明らかにした広田論文は、次の2点を提起しています。第1に、明治後期以降の中等以上の国民の「教養」の内実(高等教育進学をめざす誰もが共通に学んだ近代知)は、選抜場面で漢学的な知を押しのけて現れた、中学校で学ばれた普通学であったかもしれない、ということ。第2に、明治期のかなりの期間にわたり、旧来の「教養」たる漢学的知を有する社会層は、その知的資源を活かしつつ、新たな「教養層」=高等教育学歴の取得者に転身することが可能だった、ということ。
 非常に読みやすい論文でした。さて、読後に残った疑問は、文中で「知」と「教養」が入り交じっているが、この二つの概念は交換可能なものなのか?ということ。そもそも、高等教育機関入学試験で求められた知識と「伝統的知」または「近代知」は同じものなのか?ということ。そういえば、この間読んだ中村著で、儒教的知と近代知についていろいろ語られてたな。また勉強します。
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結果報告とこれからについて

2006年11月02日 23時44分09秒 | Weblog
 今日は運動してから登校。某先生のデータ作成をした後、PDの結果が気になって早めに帰宅しました。
 自宅に帰りついたところ、ポストに封筒が。先日より情報収集していたところによると、今年は採用も不採用も封筒だったそうなので、空けるまでは何とも考えられない。すぐに開封して内容を確認。採用か不採用かを指示する文章が見つからない。ただ、でかでかと表示された申請内容の評価(全体のABC判定と細目ごとの点数判定)が、まっさきに目に付きました。この評価は、「不採用者」中における評価判定であって、採用者には連絡されない性格のもの。評価の上の方に、ほんの一文、目立たないように知りたかった結果が記されていました。

 平成19年度日本学術振興会特別研究員(PD)申請結果は、不採用、でした。

 ショックでなかった、といえばウソになります。ですが、それ以上に、結果がわかってスッキリした、と感じたのも事実です。この結果は、来年度の身の振り方を左右します。今日結果が出て、来年度どうすればいいか決められないこれまでの状態から、ようやく脱することができるので、スッキリしたのです。まぁ、何年もオーバードクターしている人や、学会賞などをとった人などと同じ土俵で戦わなきゃいけなかったのですから、対戦相手全員がマスター生だったDC1と結果が同じになるわけがない。2ch理系全般スレや「仮に研究する人生」で収集した採用者・不採用者情報によると、DCをとっていた人がPD申請に何度も失敗した事例もあるみたいだし、もともと甘い道ではなかったわけです。とにかく、結果は、今の私の実力を示すものだと解して、厳粛に受け止める次第です。ただ、春の申請の際に関わった諸先生方には、何とも言い難い申し訳ない気分です。甚大な協力を受け、かつ多大な迷惑をかけてしまった関係者の先生方、ご期待に応えられず、本当に申し訳ありませんでした。

 さて、問題はこれからどうするか。博士課程後期3年生でいられるのは、もちろん3月末までですが、D3生の博士請求のリミットは1月末くらいだそうです。さらにいろいろな手続きも時間がかかるので、私が博士論文を書くために残された時間は、実質的には12月半ば(シビアに言えば11月末)くらいまでなのです。それより先のことを決めるには、主任指導教員のY先生に相談するしかありません。まだ日も完全に暮れていなかったので間に合うかなと思い、主任指導教員のY先生と相談するため、再登校しました。Y先生は忙しそうでしたが、納得するまで相談に乗ってくれました。
 Y先生と話をした結果を踏まえて、次のように計画を立てました。まず、12月半ばに某学会の投稿結果が出るので、結果が出ると同時に動けるよう、それまでに博士論文の構想を立てる。投稿論文が採用されても(されなきゃ論外)、12月半ばではスケジュール的に難しいので、このシナリオは期待薄なようですが… 12月半ばの実現が無理ならば、2月半ばに開かれる講座会議(教育学講座の先生方の会議)が次の目標になります。この時の講座会議では、博士課程後期4年生を認めるかどうかという判断が下されるとのこと。4年生進学は、この1年間で博士論文が書ける、という確信がある者にのみ認められるそうなので、ここでも博士論文の構想が立っているかどうかが判断基準になります。すなわち、今の私がすべきことは、12月半ばまたは2月半ばまでに博士論文の構想を立てることなのです。
 Y先生も、構想を立てるために、書いたものをどんどん持ってこい(もちろん、今までもこの姿勢だったようですが、私が逃げていた…)、と言ってくださったので、論文指導を受けられる体制も整いました。そして、先生に見せるべき次の課題もハッキリしました。来年度の最大の問題である生計を立てる方法については、親に土下座してでも援助をもらって、足りない分はアルバイトで補っていくしかない。なお、PD不採用の場合、就職活動のことも考えていましたが、Y先生は私に対して、「就職活動をしなさい(=博論は書かないでよろしい)」とは、今日も今までもひと言もおっしゃったことがないので、ここは博論執筆に専念するべきだろうと思います。2月時点でもダメなら……考える時間はたっぷりあるでしょうから、そのときに考えたいと思います。

 とにかく、今後やるべきことは、博論構想を立てることに専念することです。とくに、今まで書いてきた論文を如何にまとめるか、という問題に向き合わなければなりません。やるべきことは今までと変わっていないようですが、今日で明らかに変わったことが一つあります。それは、Y先生に対する私の信頼。数々の直接的・間接的経緯(状況証拠からの憶測も含む)から、今までどうしても一歩を踏み出せない自分がいましたが、ここはY先生を信じてやっていきたいと思います。学生が指導者を信じることができなければ、絶対に目的を達成することはできないから。ましてや、今までほぼ一人でやってきた(つもり)の私は、失敗続きで来ているのだから。そして何より、私のテーマに興味を持ってくださり、根気よくつきあってくださっているY先生の誠意に応えなくてはいけないから。
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いーかげん届いてくれ~

2006年11月01日 18時29分46秒 | Weblog
 今日は7時少し前に起床。眠かったけど起床成功~
 朝食を摂って登校後、『日本史講義』を読む。10時半から運動へ。
 一旦家へ戻ってシャワーをあびてから、再登校して論文を書く。話は流れてるし、問題意識も明確に出てる。まぁ、純粋に教育会に関する歴史研究上の問題意識に基づいているので、Y先生には文句がたぶんあるだろうけど(だったら、どうせいっちゅうねん!)。…ちょっと卑屈になってるかな? ダメダメ、卑屈は。自分の問題意識だから、堂々としなきゃね。
 再び家へ戻ってみる。昼一旦戻った時に郵便物が来てなかったので、気になったため。やっぱり、学振からの郵便物は来てなかった。今日はもう来ないな。もともと11月上旬が通知予定期間だし、明日になったら、もーいい加減に来るだろう。無防備で不採用通知を受けると、さすがにショックが大きいので(採用なら手放しで喜べるから覚悟はいらない)、不採用の時の心構えを維持しなくちゃいけないんだけど、これはなかなか疲れるのである(笑)。いーかげん届いてくれ~
 みたび登校。日が暮れるまで某先生のデータ作成。
 今日は、朝から日が暮れるまでやることがやれたので、久しぶりに充実した一日でした。かなりウロウロしたけど(笑)。
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