父が亡くなったのは2015年の6月。
92歳でした。
それまでは弟の家で父の介護をしながら過ごしていた母も「介護という日々の仕事」が無くなり「どうも認知症を発症したらしい」と弟から連絡があったのです。
18歳でホテル学校に行き、実家を離れて以来39年間も親から遠ざかっていた私ですが、流石に「これは長男の責務」と母と暮らすことにしました。
果たしてどういう生活になるんだろう、と不安であったことは否めません。
しかし後退することは出来ませんし「やっと長男として恩返しが出来るかな?」と前向きになれました。
そのスタートは2016年1月25日。
今から丁度3年前です。
両親は父の定年以来「空気の悪い堺を離れ、自然の多いところで暮らすんだ」と三重県は伊賀の山の中に小さな家を買って暮らしていました。
車なしでは買い物も行けないところでしたので、60を過ぎて免許を取りまして、弟の家に引き取られるまで運転をしていた母。
その時点で86歳。
また老年になる少し前くらいからハイキングとか山登りなどをしていて「私は足が強いのよ」と言っていまして
私と暮らし始めたころは認知があるのに元気でしたから、事件も多発します。
徘徊
破壊
火の不始末
家の内鍵をかけて私も締め出されたこと数回
しかし、日に日に認知度が上がり、それらの証拠を残していたことで介護認定も上がって介護にかかわる皆さんに沢山助けていただきました。
介護用品のことや日々のヘルパーさん。
助かりました。
私のすることは週4,5回の母との散歩を兼ねた買い物と昼御飯を一緒に食べること
そして晩御飯を造り置いてヘルパーさんに引き継ぐこと
それくらいで済みました。
お陰様で毎日仕事に出かけられたのです。
そういう生活から1年半たった頃、あれだけ足が動いた母が歩けなくなります。
「え、まさか?」とは思いましたが、その時点で93歳。
当然ですよね。
不謹慎ですが、それ以来は徘徊や破壊の心配は無くなります。
ただ風呂に自分で入れなくなりましたので、散歩に代わる私の役割が追加されます。
月に2,3度ですが私が風呂に入れることにしたのです。
これはかなり技術と力が要りまして、なかなか苦労しました。
ある時期からは箸が持てなくなり、私が食事を口に運んでいました。
それでも「今日は美味しい」「これは不味い」と言ってくれていて、それが体調のバロメーターかな、と・・・
昨年の3月には足の付け根が痛いということで1か月半の入院をします。
退院してから5か月、確かに衰えはありましたが、たわいもない話はむしろ私が癒されていたかもしれません。
それが9月26日のこと、出かけたショートステイ先から「お母さんが高熱を出して、救急搬送で入院しました」と電話があります。
直接の原因は「誤嚥性肺炎」です。
よくある話。
もう一つが歯肉癌。
そういえば8月末くらいに歯が抜けたのですが私は気にしていませんでした。
あとから考えれば、それが咀嚼を妨げていたのかもしれません。
入院先は11月末から慢性期型の病院に替わります。
「もう何か月もないと思います」
主治医の話にも驚きませんでした。
そりゃそうです。
94歳。
しかし息子としては
まずは正月を迎え
来る3月8日の誕生日で95歳を祝ってあげたかった。
ですので病院には毎日僅か10分ほどですが通っていました。
12月30日10時35分。
樋口知恵子 大正13年3月8日東京八王子生まれ
穏やかな表情で天に召されました。
正月を控え親族(母の弟さん達)も大変だろうと思い、葬儀は1月5日。
滞りなく済ませました。
樋口家は無宗教、家族のみの葬儀と互いに確認しています。
小さいながらも、というか小さいからこその密な良い葬儀でした。
そむりえ亭は大晦日も三が日も忙しく営業していましたから、むしろ私は落ち込むことなく母を見送りました。
母と暮らし始めて2年と339日。
3年に26日足りませんでした。
生前、お世話になりました皆様にはご報告が遅れたことをお詫び申し上げます。
母と買い物で歩いた先の皆様にも気を使っていただきました。
空堀商店街の花屋のおばさん、お茶屋のご主人様
スーパーのレジ打ちの方にもご心配をお掛けしました。
それと今住む谷町6丁目界隈は飲食の知人が沢山住んでおられ、散歩途中で声がけいただきました。
母は「あんたも知り合い多いねえ」と言ってくれ、ちょっと嬉しかったものです。
何人かの方には自宅まで足を運んでもらい、話してもらったり・・・
或いは徘徊して保護されて「自宅に送り届けるので帰ってきてください」という警察の電話に「忙しいので店に送り届けてほしい」とお願いした時に偶々店にいた友人に営業が終わるまで面倒を見てもらいました。
ある時は女性用の服の買い物が想像できず、わざわざお付き合いをお願いした友人。
私の手料理では飽きてしまうだろうと、仲間の店にも何店かお世話になりました。
たいして食べられないのに、そして飲めないのに、快く受け入れてくださり有難い限りです。
実は数度、そむりえ亭にも来ておりまして(堺の弟の家にいる時は母一人で、以降は弟や従妹の付き添いで)その時にはしっかり食べて、ワインも2杯ほどは飲んでいたんです。
その場にいたお客様からも「90を超えてワインが飲めるなんて良いですね」と言われ母もまんざらではない顔です。
また私と同年代のお客様の多いそむりえ亭では、沢山の「介護経験」をご教授頂き、あるいは「同志感」を分けていただき力を頂きました。
ヘルパーさんのチームには言葉にしようのないお手数をお掛けしましたし、初期のころのデイサービス、後期のショートステイ先の皆さんの心温めるご支援にも感謝しかありません。
入院先や通院先も3年で計8軒。
なにより介護タクシーの方のホスピタリティには頭が下がります。
他にももっとお世話になった方がいらっしゃいます。
本当にありがとうございました。
だらしない息子の代わりに皆さんにサポートいただき、母は幸せだったと思います。
今日のご報告に至りましたのは母を迎えた1月25日に思いを馳せてのことです。
ご容赦くださいまし。
今後は僅かな経験ですが、多くの方に降りかかる「介護」の小さな助けにでもなるような発信ができればいいな、と思っています。
皆様方のご家族のご健康を心よりお祈り申し上げます。
樋口誠
92歳でした。
それまでは弟の家で父の介護をしながら過ごしていた母も「介護という日々の仕事」が無くなり「どうも認知症を発症したらしい」と弟から連絡があったのです。
18歳でホテル学校に行き、実家を離れて以来39年間も親から遠ざかっていた私ですが、流石に「これは長男の責務」と母と暮らすことにしました。
果たしてどういう生活になるんだろう、と不安であったことは否めません。
しかし後退することは出来ませんし「やっと長男として恩返しが出来るかな?」と前向きになれました。
そのスタートは2016年1月25日。
今から丁度3年前です。
両親は父の定年以来「空気の悪い堺を離れ、自然の多いところで暮らすんだ」と三重県は伊賀の山の中に小さな家を買って暮らしていました。
車なしでは買い物も行けないところでしたので、60を過ぎて免許を取りまして、弟の家に引き取られるまで運転をしていた母。
その時点で86歳。
また老年になる少し前くらいからハイキングとか山登りなどをしていて「私は足が強いのよ」と言っていまして
私と暮らし始めたころは認知があるのに元気でしたから、事件も多発します。
徘徊
破壊
火の不始末
家の内鍵をかけて私も締め出されたこと数回
しかし、日に日に認知度が上がり、それらの証拠を残していたことで介護認定も上がって介護にかかわる皆さんに沢山助けていただきました。
介護用品のことや日々のヘルパーさん。
助かりました。
私のすることは週4,5回の母との散歩を兼ねた買い物と昼御飯を一緒に食べること
そして晩御飯を造り置いてヘルパーさんに引き継ぐこと
それくらいで済みました。
お陰様で毎日仕事に出かけられたのです。
そういう生活から1年半たった頃、あれだけ足が動いた母が歩けなくなります。
「え、まさか?」とは思いましたが、その時点で93歳。
当然ですよね。
不謹慎ですが、それ以来は徘徊や破壊の心配は無くなります。
ただ風呂に自分で入れなくなりましたので、散歩に代わる私の役割が追加されます。
月に2,3度ですが私が風呂に入れることにしたのです。
これはかなり技術と力が要りまして、なかなか苦労しました。
ある時期からは箸が持てなくなり、私が食事を口に運んでいました。
それでも「今日は美味しい」「これは不味い」と言ってくれていて、それが体調のバロメーターかな、と・・・
昨年の3月には足の付け根が痛いということで1か月半の入院をします。
退院してから5か月、確かに衰えはありましたが、たわいもない話はむしろ私が癒されていたかもしれません。
それが9月26日のこと、出かけたショートステイ先から「お母さんが高熱を出して、救急搬送で入院しました」と電話があります。
直接の原因は「誤嚥性肺炎」です。
よくある話。
もう一つが歯肉癌。
そういえば8月末くらいに歯が抜けたのですが私は気にしていませんでした。
あとから考えれば、それが咀嚼を妨げていたのかもしれません。
入院先は11月末から慢性期型の病院に替わります。
「もう何か月もないと思います」
主治医の話にも驚きませんでした。
そりゃそうです。
94歳。
しかし息子としては
まずは正月を迎え
来る3月8日の誕生日で95歳を祝ってあげたかった。
ですので病院には毎日僅か10分ほどですが通っていました。
12月30日10時35分。
樋口知恵子 大正13年3月8日東京八王子生まれ
穏やかな表情で天に召されました。
正月を控え親族(母の弟さん達)も大変だろうと思い、葬儀は1月5日。
滞りなく済ませました。
樋口家は無宗教、家族のみの葬儀と互いに確認しています。
小さいながらも、というか小さいからこその密な良い葬儀でした。
そむりえ亭は大晦日も三が日も忙しく営業していましたから、むしろ私は落ち込むことなく母を見送りました。
母と暮らし始めて2年と339日。
3年に26日足りませんでした。
生前、お世話になりました皆様にはご報告が遅れたことをお詫び申し上げます。
母と買い物で歩いた先の皆様にも気を使っていただきました。
空堀商店街の花屋のおばさん、お茶屋のご主人様
スーパーのレジ打ちの方にもご心配をお掛けしました。
それと今住む谷町6丁目界隈は飲食の知人が沢山住んでおられ、散歩途中で声がけいただきました。
母は「あんたも知り合い多いねえ」と言ってくれ、ちょっと嬉しかったものです。
何人かの方には自宅まで足を運んでもらい、話してもらったり・・・
或いは徘徊して保護されて「自宅に送り届けるので帰ってきてください」という警察の電話に「忙しいので店に送り届けてほしい」とお願いした時に偶々店にいた友人に営業が終わるまで面倒を見てもらいました。
ある時は女性用の服の買い物が想像できず、わざわざお付き合いをお願いした友人。
私の手料理では飽きてしまうだろうと、仲間の店にも何店かお世話になりました。
たいして食べられないのに、そして飲めないのに、快く受け入れてくださり有難い限りです。
実は数度、そむりえ亭にも来ておりまして(堺の弟の家にいる時は母一人で、以降は弟や従妹の付き添いで)その時にはしっかり食べて、ワインも2杯ほどは飲んでいたんです。
その場にいたお客様からも「90を超えてワインが飲めるなんて良いですね」と言われ母もまんざらではない顔です。
また私と同年代のお客様の多いそむりえ亭では、沢山の「介護経験」をご教授頂き、あるいは「同志感」を分けていただき力を頂きました。
ヘルパーさんのチームには言葉にしようのないお手数をお掛けしましたし、初期のころのデイサービス、後期のショートステイ先の皆さんの心温めるご支援にも感謝しかありません。
入院先や通院先も3年で計8軒。
なにより介護タクシーの方のホスピタリティには頭が下がります。
他にももっとお世話になった方がいらっしゃいます。
本当にありがとうございました。
だらしない息子の代わりに皆さんにサポートいただき、母は幸せだったと思います。
今日のご報告に至りましたのは母を迎えた1月25日に思いを馳せてのことです。
ご容赦くださいまし。
今後は僅かな経験ですが、多くの方に降りかかる「介護」の小さな助けにでもなるような発信ができればいいな、と思っています。
皆様方のご家族のご健康を心よりお祈り申し上げます。
樋口誠