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ブログ版 シュプリッターエコー

自分という重荷――朝倉裕子詩集『詩を書く理由』

2008-04-28 22:14:46 | 本、文学、古書店
 こんなにも自分を凝視し続けていては、生きることがずいぶん辛くなるだろうな、と思いました。
 朝倉裕子さんの詩集「詩を書く理由(わけ)」を読んでの第一印象です。

 「夕暮れ」という作品には「人でいるのが辛くなる/夕暮れが近い」と書かれます。
 「夢」という作品では、いま自分は悪夢に苦しめられていると自覚しながら、その夢を見ている自分をさえ凝視していて、その結果「目覚めて吐き気」に襲われてしまうのです。
 そしてもうひとつの「夢」という作品では、妻であり母でありながら、なおひとりでいることのできる場所を家の中で探していて、そういう自分を「いつもうしろめたい」と感じている、とあかします。

 人はいろんな荷物を背負いますが、結局いちばん重いのは自分という荷なのでしょう。
 読んでいて気が重くなる詩集であること、それはたぶん多くの人びとにとって共通の感想だろうと思います。
 いえ、むしろ、気が重くなることがこの詩集の最初に挙げるべき値打ちです。
 ぼくは「吐き気」という詩句に遭遇して、学生時代に出会ったロカンタンのことを思い出し、不気味にして魅惑的な“存在の亡霊”がそこに舞い戻ってきたような気がしました。
 
 けれどまったく救いがないわけではありません。
 「途上」という作品では末尾に象徴的な光景が現れます。
 「見上げると/広がった枝の青葉は/みな裏側を見せて空に向かっていた」
 おびただしい葉のどれもがこちらに裏を向けているという位置取りは、この場所の閉塞をほのめかさずにはおきません。
 しかし同時に葉の向こうの広大な空へとわたしたちのまなざしをいざないます。
 この広々とした光景をぼくは貴重なビジョンとしてぼくの記憶に書き込みました。

 もちろん自己を見つめ尽くすのも、そこを超えて空へあるいは宇宙へまなざしを向けるのも、それはまったく等価です。
 優劣とか善悪とかの問題では全然なくて、生きていくうえでの選択と決断の問題です。
 次の詩集がどのように書かれるか、とても心を引かれます。
         
          (編集工房ノア刊 1900円 06.6373.3641)