東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

雷鳥さん お馬が通る?

2022-06-12 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西



立山雷鳥沢付近にて

ライチョウさん、そこを通して頂けませんか?

雷鳥や恋の季節にお邪魔虫

タイトル「お馬が通る」
ネタバレ:多くの方はご存じでしょうが 「小林一茶:雀の子そこのけそこのけお馬が通る」から引用しました。


もうすぐ一ノ越


立山 雄山


剣岳が見える

https://youtu.be/uObnzN0DZ7g?t=3
立山雄山山頂よりパノラマ

黒部立山アルペンルートは何度か通った
今回は久しぶりに立山に登った

最初に来たのは何十年か前の学生時代
神戸から弟と一緒に剣岳に登ったことを思い出した
登攀道具一式をキスリングリュックに詰めた
ザイル、カラビナ、ハーケン、ボルト、ハーネス、ハンマーなど一式
重量は40kg以上あったかな
持ち上げるのにも苦労した
室堂から雷鳥沢へ
雷鳥沢を登るだけでバテバテになった
雷鳥沢から剣御前を通って剣沢へ
そこで一泊
翌日は剣沢を下り平蔵谷の出合へ
平蔵谷の雪渓をつめて剣岳に直登した
結局はピッケルとアイゼンのみのフリークライムだった

剣岳に登るために六甲山の岩場や沢筋で練習した
自宅は王子公園の近くにあった
王子公園から登ると青谷があり摩耶山へのコースがある

阪急の芦屋川から上に高座の滝がある
近くに芦屋のロックガーデンがある
藤木久三さんが岩登りで遊んだといわれる場所だ
ボクはそこで懸垂下降やロープワークの練習をした
六甲で花崗岩の荒い肌触りの岩カベでハーケンやボルトの試し打ちをした

弟と六甲山以外の山に行ったのは剣岳のみかな
その後に弟は勤務先の会社に仲間と山岳部を作った
しばらくして仲間が滑落して命を落としたか重傷を負った
山岳部は解散し山から離れたようだ

ボクもほかのことで忙しくなり根を詰めた山登りから離れた
その後は犬の散歩と称して時々は山に行った
山行回数が増えたのはこの数年のことだ

立山雄山山頂より
遠くに槍ヶ岳が見える
穂高も見える
ジャンダルムも識別できる


今回の立山には山スキーの下見に来た
一ノ越から雷鳥沢にかけていい斜面がある

コメント (2)
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こいつぁー春から縁起がいい 御柱祭と富島八幡さんの祭

2022-01-21 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
諏訪大社 前宮

諏訪大社 上社前宮

諏訪大社 上社前宮 御柱

地元の方や詳しい人はご存じのように諏訪大社は4か所ある
諏訪大社で有名なのは下社だが上社も風情があっていい
下社は20年以上前に参拝したが上社は初めてだ

・諏訪大社 上社 前宮(茅野市)
・諏訪大社 上社 本宮(茅野市)
・諏訪大社 下社 春宮(諏訪郡下諏訪町 )
・諏訪大社 下社 秋宮(諏訪郡下諏訪町 )

大社には御柱(おんばしら)があった
諏訪の御柱祭は命懸けで勇壮で有名だ

以前に記したが建築家の藤森照信先生のエッセイを読んで御柱祭のことを知り触発された
この祭りの地元での盛り上がりは尋常ではない
藤森先生は元東京大学生産技術研究所の教授で茅野のご出身だ
郷土愛に溢れ、タンポポハウスやニラハウスで有名だ
昨年秋の旅で近江八幡のお菓子屋さんラコリーナの建築作品と遭遇した 

茅野と言えば諏訪清陵高出身の大学原子核の同級生がいた
五橋二部屋のアパートをシェアルームして住んだ
極く短期間だった
その後自分は旭が丘に移った
卒業して茅野に帰ったと風の便り
元気でいるかな
あのころは青春!


さて、祭りと言えば思い出す
生まれ故郷の淡路島富島の八幡神社、八幡さんの祭り
中学になったとき「だんじり」の中に乗った
住んでいた富島東のだんじりの太鼓を叩いた
だんじりの中の太鼓は直径2mほどあったろうか
ドンデンドン・エーイエイ・・と町中をゆっくりと流す
住吉神社から八幡神社に向かう
富島東(ヒガッショと言った)、富島中(ナカンチョ)、富島西(ニッショ)、石田?、浅野?、育波(イクハ)?、室津?など
だんじりが集まる
(このあたりは記憶が薄れている)
八幡神社の境内に集まる
各町のだんじりが競う
何十人かで担ぐ
ヨイヤヨイヤと段々とテンポが速くなる
若い衆やオッサンの体が紅潮し汗が飛び散る
ドンデンドン、ドンデンドンデンドンデンドン・・・
急テンポになる
クライマックスに続く
だんじりの中は大揺れだ
それでも中の太鼓を叩き続けた

諏訪大社 上社本宮

諏訪大社 上社本宮 御柱


さて私事、
上社本宮から茅野駅まで歩いて帰ったがザックに帰りの切符がない!
駅の職員に聞いても届いていない
茅野警察署に聞いても届いていない

山で迷ったら元の道を戻るのが鉄則
駅から上社本宮まで向かって急いで歩いた
20~30分ほど歩いた
あの橋のところまで行ってみよう
もう諦めようとした時
落ちていた
信じられないことにキップを発見!

こいつぁー春から縁起がいい!


チケット 発見!


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上五島の神徳さんとJAL清水保俊さん

2021-12-01 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
下五島 福江港


上五島 奈良尾港

 叔父の話はもはや遺言となってしまったが、終戦後に生船(なません)に乗っていた時「あなたの祖父や父とともに五島で大変お世話になった神徳(じんとく)さんという網元がいて、羽田沖の航空機事故でなくなられた」と聞いていた。

 下五島福江港のフェリー乗り場で時間待ちをしていたとき、年輩の方に話しかけられた。今は北九州に住んでいるが実家が五島にあるので訪ねてきたとのこと。
「バイク旅行はいいですね」
「神徳さんという網元はご存じですか」
「水産は上五島の方が盛んでした。今は昔ほどではありません」

 帰宅後に調べてみると神徳水産は宮崎県日南市にあった。しかし五島列島にはないようだ。さらに検索すると

「まき網漁業の歴史とわが足跡」神徳祥二郎 著 出版年月日1999.10 神徳祥二郎, 1921-   253p ; 21cm  JP20056015 出版地 奈良尾町 (長崎県) KW  沖合漁業 イワシ漁業 カツオ漁業

が出てきた。著者の神徳祥二郎は私の親父と年代が同じで、確かに上五島の奈良尾に神徳さんの一族の活動の拠点があったと推測できる。

羽田沖の航空機事故は2つある。
・1982年2.9(昭和57年)JAL DC8-61 福岡→羽田 羽田沖 死者24人/乗員乗客174人 
・1966年2.4(昭和41年)ANA B727-100 千歳→羽田 羽田沖 133人乗員乗客全員死亡

亡くなられた経営者の神徳さんは、出版された「まき網漁業」の本の著者とは別の方のようだ。

さて、航空機事故に関しては私の高校同級生で尊敬する清水保俊くんの出版物がある。清水くんはJALのフライトエンジニアでジャンボジェット機など1万時間以上のフライト経験があり、社内で教育にも携わっていた彼は小説を書いた。

清水保俊著 「グッドラック」 
 https://blog.goo.ne.jp/sstkbe320/e/ee2f502a404ed5f9708fbe380fa4eacc 1985年(昭和60年)8.12 JAL123便(B747SR-100)の航空機事故を扱った小説だ。
・「機長の決断 日航機墜落の「真実」」 (講談社文庫) 清水保俊   ASIN ‏ : ‎ B074KKPN93 (2017/7/14)
・航空機事故 人類は航空事故から何を学んできたか?単行本1997/5/1デイビット・ゲロー (著)、 清水 保俊 (翻訳)  イカロス出版 
・航空テロ 1930年から現在までの「航空犯罪」記録集 1997/12/1 デイビット・ゲロー (著)、 清水 保俊 (翻訳)  イカロス出版
がある。


 お世話になった神徳さん、最後は文筆家になった清水保俊さんに合掌。






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生船(なません)鮮魚運搬船

2021-11-28 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
 





先年亡くなった叔父さんの話では、私の祖父は信望のある船長だったそうだ。
終戦後、魚は飛ぶように売れた。
動物性タンパクが極端に不足していた時代のことだ。
終戦直後の一時期に祖父、父と叔父が同じ生船(なません)に乗って九州方面から神戸大阪に魚を運んだ。
対馬、壱岐、五島、天草などから関西へ運ぶのだ。
戦前は朝鮮からも運んだという。
氷詰めのイワシなどの青物はちょうど大阪の市場に着く頃に氷が溶け終わるように運搬したという。
祖父はその時間調整を伴う生船の操縦が絶妙だったという。
祖父や父は対馬のことを対州(たいしゅう)、壱岐のことを壱州(いしゅう)と呼んでいた。
その後、生きた魚を生け簀で運ぶ鮮魚運搬船が多くなり大阪の料亭などで重宝されたという。

今回、五島列島や天草に行ったのは祖父、父、叔父が通った海の道を見たかったからだ。

五島列島の海岸線は入り江が多く美しく天然の良港が多い。
ここは弘法大師となる空海が遣唐使船に乗って中国に向かった西の果てだった。
五島と長崎の中間に船で来ると、どちらも晴れた日には肉眼で確認できる。
平戸方面を見れば五島は半島の続きのように見える。
長崎から西北西に向かえば五島列島は屏風のように連なって見え、何とも安堵できる存在だ。
もちろん海が荒れたらひとたまりもなく遭難死する。

長崎が近くなると、まず三菱重工の門形クレーンが見える。
百万トンドックといわれた名門のクレーンだ。
30年以上前に見学したことを思い出した。






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八幡堀 近江商人

2021-10-27 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西



学生時代には神戸のJR灘駅から京都に通学していたことがある
灘から芦屋まで普通電車で行き、快速か新快速に乗り換える
その時の電車の行き先は京都、草津、安土、米原などだったと思う
近江八幡はあまり記憶にない

後年、会社に入り、I君という若い人が近くに配属された
彼は優秀で京大の航空から大学院は東大の宇宙科学研究所に行った
初対面のとき彼は「八幡の出身です」と言った
ボクは「八幡はどこ?」と聞いた
「近江八幡ですよ」
快速電車の行き先の駅しか知らないボクは
「草津? 安土? 米原?」
などと間抜けで失礼な会話をしたことを思い出した
近江八幡は近江の中心なのだ

近江八幡に来たのは生まれて初めてだ
横浜と神戸の間は新幹線や車で何度往復したか数知れないというのに!

今回、近江八幡に来たのはカミさんのリクエストだ
近江商人のふるさとを見たいとのことで

信長の安土城建設の一大プロジェクトがあり
人も金も膨大な市場ができた
それに楽市楽座で益々繁栄する
安土城炎上のあとは豊臣秀次の八幡城だ
楽市楽座は継続した
地元の近江商人が黙っているはずがない
その膨大な利益をもとに堺や全国へ
「黄金の日々」ではルソンまで行った話がある

琵琶湖は水運が盛んだった
水運が商売の雌雄を決する
大量輸送には船が最も効果的だ

水運や海運業は昭和の高度成長期まで続いた
祖父と父は生船(なません)乗りをやめた
生船は水産運搬業だ
2人で船を買った
鉄鋼製品の海運業を始めた
自分が大学に行けたのは海運業のおかげだ
祖父と両親に感謝、多謝!






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饅頭屋のオートバイの記憶

2021-06-25 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
 ボクが中学生のころ、同学年の幼友達の家である饅頭屋によく出入りしていた。関西では一般的だと思うが、饅頭屋(まんじゅうや)のことを「まんじゅや」と呼んでいた。ボク達は淡路にある高田のまんじゅやの二階や道路向かいの倉庫でたむろしていた。
 おやじさんは婚礼や法事のための饅頭を受注して作り、時折、それを遊んでいないで客先に届けるよう息子に厳命が下り、ボクはその配達に何度か後について行ったことがある。何段にも重ねた饅頭のパレットを荷物配送用の自転車の荷台に積んで客先に行く。そのときオートバイの前身の原動機付き自転車を見たような気がする。荷物用の自転車もこんな形状だった。
 
 余談だが、饅頭屋の二階には卓上型レコードプレーヤーがあり、そこではどういう訳か洋楽のレコードばかりをすり切れるほど聞いた。レイチャールス " I can't stop loving you" やコニーフランシス ”Vacation” などは今でも何とか歌え、英語の発音はこのレコードと近所の武田先生の塾で進駐軍仕込みの英語を聞いて覚えた。
 
 ホンダはその後、原動機付き自転車の名車カブを製作販売し、オートバイや四輪車のメーカーに発展する。この歳になって、オートバイの魅力を理解するようになった。母親は自分の目の黒いうちはバイクとヨットに乗るなと言っていたので避けていたが、バイクは馬に乗っているような感覚があり爽快な気分だ。
  

本田宗一郎が原動機付自転車第1号を製作【1946年(昭和21年)】/浜松市
 (city.hamamatsu.shizuoka.jp)
 

「ホンダコレクションホール開館20周年記念展示」の会場から

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雪まつりから始まった

2019-05-19 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
 

 それは昨シーズンの冬、2018年なので平成30年の2月、さっぽろ雪まつりから始まった。
 親戚の人が既に北海道に赴任していた。
「Aさんが北海道に行ってから何年になるかしら?」 
札幌には何回か行ったことがあるが、雪まつりには行ったことがない。
「Aさんが北海道に居るうちに雪まつりに行ってみたいね」
ということで、急きょインターネットで千歳行きの航空券を押さえた。

 仙台から札幌へは格安航空の路線がある。空港を飛び立つと眼下に松島湾、十和田湖などが見えた。
 札幌行の航空機から下北半島の関根浜港も明瞭に見える。最近は核燃料施設の見学などで下北半島へ度々訪れるようになった。原子力船「むつ」の母港が、反対運動で下北半島の大湊から関根浜港に移ったことで名が知られた曰く因縁付きの港だ。
 空の上から雪氷に覆われた港を眺めていると、月日が淡々と流れ、一瞬のうちに原子力船が現れて過ぎ去って行ったことが夢のようにも思われる。

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同期会 伊豆韮山土肥から清水へ

2019-04-23 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西





 

 小学中学の同期会が伊豆長岡で開催された。韮山の反射炉、土肥金山などを見学し、フェリーの船旅で土肥港から清水港へと向かうというバラエティに富んだ旅行だった。伊豆の西海岸は淡路島北部の西海岸に似ていて故郷を彷彿とさせる。
 
 それにしても淡路島から伊豆半島まで片道550kmを貸切バスで来て往復するのだから恐れ入る。勿論、明石海峡大橋が完成した後は陸路で繋がり高速道一本で来ることが大きい。故郷で頑張っている同窓生を核にして岡山、兵庫、大阪から途中で同乗し、それに加え名古屋、埼玉、新潟、茨城、仙台など各地から同期生が伊豆長岡に集まった。

 心残りながらボクは清水港で皆さんとサヨナラしたが、同期生には幼い頃のイメージが残っていたりして50年以上のタイムスリップ旅行はたいへん楽しかった。

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おじいさんの双眼鏡

2019-04-01 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

 新元号は令和となった。祖父のことを想い出した。祖父の双眼鏡が手元にある。接眼レンズには LEMAIRE FABT PARIS と記されている。ルメールファビはフランス製で日本でも海軍にて使用されることが多かったようだ。多分、戦前には日本製の双眼鏡に現在のニコンのような良い製品がなく、船乗りはフランス製を愛用していたようだ。

 明治生まれの祖父は第2次世界大戦というか大東亜戦争以前から生船(なません)の船長だった。生船の船倉の栓を抜いて生簀にし、戦前は五島列島や天草、朝鮮から高級魚を生きたまま運んだり、あるいは生簀(いけす)となる船倉の船底を栓で密封して水を入れないようにして船倉を空にし、その中に粉砕した氷を敷き詰めた魚箱を何段にも積み上げて船倉を満杯にして、大阪や神戸に運んでいた。

 私の母の弟にあたる叔父は終戦直後のほんの一時期、祖父が船長だった船に乗っていたことがあり、何年か前に伺ったところ,終戦直後は魚が飛ぶように売れ、魚を生簀で生かしてして運ぶよりは魚を多く大量に運ぶために、空船にした生船に氷漬けにしたサバやイワシの魚箱を積み込んで、九州各地や下関あたりから瀬戸内海を通って大阪や神戸に運んだそうだ。祖父は魚箱の氷がちょうど融けるころに荷揚げの港に到着するように船を運行していたことを例にあげ、腕のいい船長だったとたいへん感心していた。身内のボクが言うのは気が引けるが祖父は真面目で落ち着いていて評判が良かったそうだ。五島列島の網元の神徳さんには贔屓にして頂いていたが、残念なことにその神徳の親方は後年に羽田沖の航空機事故で亡くなられたと伺った。
 子供のころチョコレート菓子やフグの干物などを、九州や下関から祖父が小包でよく送ってくれたのでそれが楽しみだった。祖父や父は九州の州と同じ発音で、対馬のことを対州(たいしゅう)、壱岐のことを壱州(いしゅう)と呼ぶ。瀬戸内海を通って大阪神戸とを行き来する生船は、途中で船員の多くを占め多くの船の母港でもある淡路島の富島港に立ち寄る。ボクが小学生の低学年のころ祖父の生船に乗って神戸港まで同乗して行ったことがあり、その時から使っていたのがこの双眼鏡だった。

 終戦後に世の中が落ち着き、鮮魚の運搬も既に船から陸送に代わったため、少しやんちゃなボクの父親は生船をやめてコックとなって神戸の進駐軍に勤めていたが、その後、ボクが小学生の3~4年になるころ、父は生船乗りの祖父を誘って独立して神戸で海運業を始め、神戸製鋼の鉄鋼製品を運ぶようになった。親父も長年この双眼鏡を使っていた。

 何年か前に「坂の上の雲」のTVドラマで日露戦争の日本海海戦を拝見したが、東郷ターンで有名な旗艦三笠の船橋で将校が首に掛けていた真鍮製の双眼鏡はどこかで見たことがあるな、ああ、これは祖父の双眼鏡と同じメーカー製に違いないと思った。
(追記: 大澤様よりコメントを頂き訂正しました。有難うございました。東郷司令長官の双眼鏡はZeiss製とのことです。望遠鏡や双眼鏡の世界のシェアや歴史を調べると時代や背景が解ると思います。)



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阿久悠記念館 明治大学

2019-03-27 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西



御茶ノ水の駿河台に明治大学があり、明治大学博物館がある。阿久悠記念館はその博物館の中にある。

明治大学博物館には大学創設者や卒業生の元内閣総理大臣の三木武夫氏など限られた人物が掲示されているが、その大人物に並んで阿久悠がいて、その中に阿久悠個人の記念館があり同学の中でも破格の評価を受けている。
 阿久悠は淡路島、兵庫県津名郡鮎原村(現在の洲本市五色町)の出身で県立洲本高校から明治大学文学部に進んだ。五色町はボクが生まれた富島に随分と近い。少年から成人に到る過程は瀬戸内少年野球団ほかいくつかの自伝的小説になっている。阿久悠のこの小説は1980年代の作品で、彼はかなり年上であるがボクと共通し共感するところも多く、同氏の小説を最近読み始めたばかりだ。

 ところで阿久悠といえば歌謡曲の作詞家で5000曲以上の作詞を手掛けたそうだ。レコード大賞5回とは恐れ入る。スター誕生という番組で森昌子、桜田淳子、山口百恵とボクでも知っている歌手の登竜門となる番組の企画を担当した。今から思えばポップス界の天才ですね。阿久悠記念館には伊豆宇佐美の自宅仕事場が再現されていて、ここで仕事をしていたのかと現実感が身に迫る。そういえば、一世を風靡したピンクレディーのUFOもレコード大賞だったのだ。

 さて、御茶ノ水の明治大学のタワーの向かい側にそば屋がある。阿久悠記念館に行った帰りに大学前のそば屋でカツカレー丼を注文した。出てきた丼はボリューム満点で食べきれないくらいの量だった。ああ、これが学生街のそば屋、青春そのものだ!と思いながら胃袋に詰め込んだ。

UFO 
阿久悠作詞 都倉俊一作曲 ピンク・レディー唄
手をあわせて見つめるだけで
・・・・・
・・・・・
地球の男に飽きたところよ

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