東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

瀬戸内少年野球団 阿久悠

2019-02-18 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

1979年文藝春秋社、1983年文春文庫、刊。一度は読みたいと思いながら、今更ながらやっと読了した。
阿久悠は時代の寵児だった。

阿久悠、昭和12年生まれ。作詞家、レコード大賞5回。1971年また逢う日まで尾崎紀世彦、1976年北の宿から都はるみ、1977年勝手にしやがれ沢田研二、1978年UFOピンクレディー、1980年雨の慕情八代亜紀。

瀬戸内少年野球団は阿久悠の作品ながら、ボクの少年時代そのものだ。阿久悠とは世代の差があるが、戦後の少年の生死をかけた遊びとめちゃくちゃな生活、話し言葉、遊びから野球へと進むことによってまともな人間になっていく過程、みんなボクの少年時代を思い出させる。





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淡路島から小豆島へ

2019-02-03 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

 小豆島に上陸するのは今回の旅行で生まれて初めてのことだ。姫路港からフェリーに乗り、家島諸島を左舷に見て正面に小豆島が見えてきた。小豆島を見ると遥か昔に仲間と一緒にボートを漕いで小豆島に向かったことを思い出した。

 多分あれは中学1年の夏休みのことだ。ボクは中学まで淡路島北部の富島(現在の淡路市富島)にいた。ある日、数人の遊び仲間と海岸でボートが漂着しているのを見つけた。公園の池でカップルが乗るような平底のボートだ。海に入れても底から海水がどんどん侵入して沈没してしまう。そこで修理して乗ってみようということになった。みんなで手分けしてハンマー、ノミやマイナスドライバーなどのありあわせの工具と、ボート底の穴や隙間に詰めて海水の侵入を防ぐため、シュロの繊維とパテを持ち寄って、暑い夏の海岸でみんなで何日かかけて修理し、かろうじて水密を保った。しかしボートは古くて捨ててあったしろものなので、修理してもボートの浸水は完全には止まらず、ほんの少しじわじわと底から海水が染み込んできたが、これ以上の修理はできないのでそれで完成とした。

 そこで数人が乗り込んで淡路島北部の砂浜の海岸から沖に漕ぎ出した。ボートのオールがなかったので、平な板を櫂(かい)にしてボートを漕いだ。多分、漕ぎ手は左右に2人ずつに分かれて、ペーロン競漕のように前から後ろへと力を入れてかき込むように漕ぎながら進むのだ。メンバーは私設野球チームのキャプテンほか中学2年の上級生が主で、中学1年はボクとタカタくんの2人だったと思う。下級生のボクは役に立つ漕ぎ手だったと思う。瀬戸内の海は鏡のようで波もなく、この世の天国のような気分だった。せっかく沖に出たので、家島や小豆島を目指そうという話になったことを覚えている。そしてどんどん沖の小豆島方面を目指して漕ぎ出した。
 
 その後、何時間ぐらいたったのだろう。ボートを漕いでも漕いでも目標の小豆島は全然近づかない。ただ、岸からどんどん離れていく。岸からは何kmかは離れたが、ご承知のように瀬戸内海の潮流は非常に早く、干満に応じて方角や速度は目まぐるしく変化する。ボートの底から浸水する海水のことをアカというが、ボートの内側にアカがたまってきて、ヒシャクでいくら汲み出してもどんどん海水が船内に入ってくるようになった。たぶん防水が効かなくなってきたのだろう。潮の流れは速く目指す西方向ではなく南西に流されるようになった。岸側の地形も見覚えがない。たぶん室津の沖ぐらいまで流されたのだろう。食料や水はほとんど積んでいなかったし、ボートは潮流に流されるし、ボートのアカをヒシャクで必死にくみ出す。その後はずいぶん長い間アカを必死で汲みだして、一生懸命にボートを漕いだ。あとはどうやって出発地へたどり着いたか覚えていないほど疲労困憊して帰り着いた。

 さて、淡路島北部の富島から小豆島までは50kmほどの距離がある。とても手漕ぎのおんぼろボートで行ける距離ではない。50年以上経過してその小豆島にやっと上陸できた。




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甲子園 淡路 また来る日まで

2018-08-22 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

今年の夏も終わりです。
帰りは夕刻、富士山が見えた。
また来るよ!
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母の生い立ち

2017-08-17 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

昨年のことだ。叔父から母の生い立ちを伺った。私の母方の祖父母、すなわち母の両親が結婚する前は二人とも教員をしていたようだ。祖父母は現在の兵庫県淡路市の出身で、結婚したころ祖父はすでに教員ではなく警察官になっていて、現在の京都府亀岡市で駐在巡査だった。

母が4歳のときにその祖父が亡くなり、止む無く亀岡の駐在所から祖母と私の母を含む3人の子供は転居することになった。祖母は京都の亀岡から大阪府の能勢へ母と2人の弟を連れて徒歩で峠越えをしたそうだ。そのとき母は4歳、弟は2歳と末弟は生まれたばかりの乳飲み子だった。そして夫を失くした祖母と母を含む幼い3人の子供たちは淡路の実家に帰った。昔のことなので3人の子供を食わせて育てるのは並大抵のことではなかったはずだ。

その後、母は神戸の女学校へ行ったが、戦争が激しくなり空襲が始まり学業半ばでやがて終戦を迎える。

祖母は生け花と茶道の師範免許を取得し、やがて母も同じように師範となった。生け花は京都仁和寺の御室流、茶道は裏千家だった。祖母と私の母は二人で実業高校や料亭、裕福なお宅などに伺い、生け花を設えたり、茶道を教えたりして生活をしたようだ。

ボクが小学生のころ、自宅の2階に花嫁修業のうら若き女性のお弟子さんが何人か来られ、化粧や香水か本来の女性の持つ匂いか知らぬが、幼いながらもほんのりとした香りに秘かに心ときめいた記憶がある。

母は結婚した後も、何かにつけ二人の弟の面倒をよくみた。日常茶飯事のことや盆暮れのことから金融まで随分と面倒を見たようだ。

今から思えば母はいつもせっかちで忙しく、何にでも興味を示すが達観し、父との口論もないとはいえず唯我独尊の雰囲気があった。私といえば、高校の思春期にはよくあることだが、当時の家や社会を取り巻く漠然とした環境には満足できず、このままでは駄目になる、早く独立しなくてはと考えた。大学を家から離れた仙台を選んだのも若気の至りに加えてそんな理由もあったと今では思える。

早いもので母の一周忌が過ぎ、送り盆も終わった。

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楠木正成 大楠公 湊川神社

2015-10-19 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
先日は予定時間前に湊川神社へ行った。
神戸駅の山側にある。
正月休みで帰省したとき王子公園近くの自宅から何度かは初詣に行ったことがある。

楠木正成の像は少し離れた湊川公園にあるため、子供のころに行ったきりなので、足を伸ばしてみた。大楠公さんは随分と立派だった。幕末期に尊皇の気運があり見直しされた。
湊川公園は新開地と呼ばれる繁華街に隣接している。現在、神戸の繁華街は、元町、三ノ宮、ハーバーランドなどに移っている。

新開地といえば、父親がニュース映画を好んだので、新開地の映画館に連れられて何度か行った。あれは小学校の低学年か、もっと幼い頃だった。薄暗い映画館にいきなり派手な音楽と明るい映像が飛び出し、抑揚を押さえたアナウンサーの渋いナレーションが淡々と世相を伝えていた。






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ああ! 懐かしの747

2015-07-29 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
清水保俊さんの本「グッド・ラック」を読み始めたが、持って来るのを忘れてしまった。

何と空港には2階があるジェット機がいた。懐かしのボーイング747ではないか。何たる偶然か!我が目を疑った。まだ健在で現役だ。

機体番号は B-18208 たぶんB747-400
ジェットエンジンのメーカーに勤務していた私にしては、詳しくないのはご愛嬌だが、機体番号から型番がわかるはずだ。

それにしてもジャンボ機が健在なのは何か縁がある。清水保俊さんの本を多くの人に読んで頂きたいですね。



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清水保俊著 「グッドラック」

2015-07-28 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西
ボクらのヒーロー 清水保俊さんの最新の著書「グッドラック」が発刊された。

ご本人の話によれば、30年前の余りにも悲しい出来事なので、敢えてこのタイトルにしたそうです。

まずは読まなくては!


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ラスト・フライト 清水保俊 応援団長

2014-06-07 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西



いつかネットサーフィンした
清水保俊という名前が出てきた

どうも高校2、3年の同級生だ
清水クンと柳瀬クンはいつも一緒だった
合気道の絞め技も得意だったよな

明石高校の野球部は甲子園を目指していた
何しろ全国大会甲子園の強豪だった
明石と中京の準決勝戦
延長25回
翌日再試合で敗れたり
捲土重来
伝説の驚異の粘りは語り継がれた

応援団長は清水クンだった
あの黒い学ランと白いハチマキはカッコよかった
三三七拍子
汗が飛ぶ
気合を入れるのもカッコいい

清水クンにシビレた女の子は数知れず

彼は商船大学へ行った
それ以来会っていない
遠洋航路の船乗りになってるだろうと思い込んでいた

いつの間にかJALの飛行機乗りになっていた
一万時間のフライト すごいなあ

その上、小説まで出版した
アマゾンで早速彼の本を購入した

ボクがやりたかったことを清水クンは全て実現した

清水クンの人生に乾杯!








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父の進駐軍勤務

2014-05-30 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

 昭和20年8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ終戦を迎えた。
 軍隊から郷里にもどり、終戦の昭和20年の暮れ、父は母と結婚し、昭和22年に私が生まれた。

 父は再び生船(なません)に乗った。終戦後、食糧事情が非常に悪かった。百姓も食料を手放すことに渋く、女の人は一張羅の着物を持ち込み、泣く泣く米や芋と交換してもらったらしい。
 ただ、祖父と父は戦後も生船で運んでいた魚があったため、百姓の家へ行って米と交換してもらったそうだ。祖父も父もお前には、つまり私のことだが、ひもじい思いをさせたことはないと言っていた。

 その後、戦争が終わって少し世の中が落ち着いたころ、私の妹が生まれ、その後に弟が生まれた昭和28年ごろ、父は何か思うところがあったのだろう、陸(おか)に上がり、神戸に駐留していた米軍、つまり進駐軍に勤務を始めた。米国兵に食事を調理して提供するコックとして勤務した。

 進駐軍に勤務する従業員一同、日本人が主体となって、神戸の須磨浦公園で運動会があり、家族もみんな参加した。私が7歳のころだった。その時に父親たちが作り、みんなに振舞われたアイスクリームがとてもこの世のものとは思われないほど美味しくて、口の中でとろけて夢中でむさぼり食べた。今でいえばハーゲンダッツのようなサーティワンのような本物のアイスクリームだ。そのころは氷のアイスキャンデーや人工甘味サッカリンのアイスしかなかった時代だ。

 この時、褐色の飲み物も一緒に提供された。一口飲んだが薬臭くて刺激があって泡が噴き出て、いったん口に入れたものの吐き出すわけにもいかず、思い余って飲み込んでしまったが、食道から胃まで、その液体は暴れながら訳も分からず落ちていった。何とも不思議な飲み物だった。

これがボクのコカコーラの、アメリカの初体験だった。

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父と戦争

2014-05-10 | 淡路・神戸・明石・京都・大阪・関西

支那事変から太平洋戦争へと長い間、日本は戦争の時代が続いた。実際に戦争に行った人は父を含めて自分の体験の多くを語りたがらない。生きるか死ぬかの戦争に行くと、自分が生き残ったことが奇蹟なのだ。 

父は二十歳の新兵検査に合格した後、現在の中国に一兵卒として出征した。年代は1940年、昭和15年ころだった。上海近郊の蘇州あたりにいたようだ。蘇州という地名が出ると遠くに視線を置いて、しみじみと懐かしそうな表情を垣間見ることができた。

その後、中国に3年間ほどいたようだが、胸を患い肺結核になり、内地へ送還された。2年間ほど内地療養で病状が回復した後、1945年昭和20年5月ごろに再招集され、大阪の堺の連隊に配属され、次の局面に備えていたが昭和20年8月に終戦を迎えたそうだ。

 写真は10年前に中国の蘇州に旅行したときの蘇州の運河と寒山寺だ。父も一緒に行く予定だったが、高齢で体調を崩したことと母が難色を示したため参加しなかった。




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