東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

カモシカスポーツ 高橋和之さん

2019-12-28 | 旅・趣味・自転車ほか



 カモシカスポーツはJR高田馬場駅前にある。
高橋和之さんの登山用品の店だ。

 高橋和之さんの奥さんは登山家の今井道子さん。何かの機会で、最近そういえば今井道子さんの名前を聞かないな、と思っていたら多分本業のお医者さんで忙しかったのでしょう。今井道子さんといえば、何十年か前のグランジョラス北壁の登攀で有名になった。ボクでも記憶しているのだからやはり有名人だ。

 高橋和之さんの経歴をみると、20代でグランジョラス北壁冬期登攀、その後はダウラギリⅣ峰などヒマラヤの山々、チョオユーからパラグライダー降下など輝かしい山歴があることを改めて知った。有名な登山家はほとんど若くして亡くなっている。生き続けているのが奇跡だ。

 ボクも若い頃は憧れがあり、趣味の山歩きだったが、単独の限界もあったので30代前半で足を洗い、犬の散歩程度の山歩きをすることと相成った。

 高橋和之さんはもう年輩になられたようですがお元気そうで何よりです。やはり登山では生き残るということは大変価値のあることだと改めて思った次第です。

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八甲田山雪中行軍遭難

2019-12-14 | 旅・趣味・自転車ほか





新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は1971年の作品で、この時期に「芙蓉の人」や「孤高の人」など、山岳小説を多数発表している。

先日、新青森駅から乗ったタクシーは女性運転手でかなり饒舌で、高倉健主演の「八甲田山」映画DVDを8回見たとか、映画と史実は随分違うとか微細に説明するので、八甲田山遭難の情報は否応なく頭にインプットされた。

八甲田山雪中行軍遭難資料館は幸畑墓苑の中にあり、日本陸軍第8師団青森の歩兵第五連隊の210名のうち199名が凍死他で亡くなった凄まじい山岳遭難だ。合掌。

この遭難は明治35年1902年1月下旬の大寒波があった時期で、日露戦争1904年の直前だ。ロシア軍が津軽海峡と陸奥湾を封鎖して八戸方面に上陸することを想定し、青森や弘前から援軍を送る作戦の一環で、八甲田山の山麓を迂回して八戸方面に行く訓練だった。南下を続けるロシア軍との戦闘はそれほど現実味があり、切羽詰まっていた。

現場は八甲田山の山頂ではなく少し下った高原であるが、当時の大寒波はマイナス20℃の猛吹雪が連続しており、遭難現場は2km程度の範囲で3夜の野営を強いられている。このホワイトアウトの中でリングワンデリング(環形彷徨)を繰り返している。吹雪の中のリングワンデリングは典型的な山岳遭難で、真っ直ぐ進んだつもりでも少しずつ曲がって行進し、何度も直進したつもりでもまた同じ場所に戻って来て、力尽き果て死に至る。

当時の兵士の耐寒装備は充分とは言えず、足にトウガラシをはさんで油紙を巻きワラ靴を履いたという。ほとんどの人は手足が凍傷になりゴム長靴の1人は凍傷を免れたという。当時では望むべくもないが現在ではゴアテックスやメリノウール、ダクロンなど耐寒や調湿機能が良くなり、化繊で氷雪が付着せず装備も軽量化している。ただしどんなに装備が充実しても吹雪と寒さは怖くて容赦なく命を奪う。

同時期に訓練で現地を通過した弘前の歩兵31連隊38名は1名の犠牲者もなく、八甲田東麓を通り青森に到着している。新田次郎の小説は2つの歩兵連隊の記述が史実と少し違うようで、資料館に新田次郎の名前は出てこない。

余談だが、新田次郎の「孤高の人」は神戸の三菱重工造船所技師の加藤文太郎をモデルにした小説で、ボクが若いころは彼の単独行にかなり影響を受けた。ちなみに数学者でエッセイスト、お茶の水女子大学の藤原正彦先生は新田次郎のご子息だという。



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コルフ島のエリザベート

2019-12-06 | 旅・趣味・自転車ほか

今年6月にクルーズでギリシャのコルフ島にあるアヒリオン宮殿に行った。ここはエリザベート皇后が避暑に訪れていた。

彼女の時代は19世記半ばから後半にかけて1880年ころなので日本では明治時代。エリザベートはハプスブルク家の最後の王朝、オーストリアハンガリー帝国の皇后だった。1898年、日本では明治31年になるが、イタリアの無政府主義者のテロに遭いこの世を去った。このころ日露戦争は1904年、1914年は第一次世界大戦、バルカン激動の時代だ。

現在、ハプスブルク家の美術展が国立西洋美術館で開催されている。ここでエリザベート皇后の肖像画に思いがけず再会した。その美貌の全盛期にはウェストが50 cmとかのサイズで、体型を維持するためにダイエットやエクササイズに並々ならぬ努力をしたという逸話は有名らしい。

ウェストが50 センチとはボクの約半分だ。もちろんその気はないが、ボクがどんなに努力しても無理だ。





















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タヌキ岩 モルゲンロート

2019-09-06 | 旅・趣味・自転車ほか
足腰の点検第2段

穂高の涸沢まで行った。ボクの足腰は上高地から片道6時間には何とか使用に耐えることが判明した。

知る人ぞ知るタヌキ岩(狸岩)は前穂高岳北尾根の六峰にある。若いころに横尾のテントから涸沢経由で五峰と六峰の間、五六のコルのガレ場を詰めて前穂高北尾根を頂上まで行き、奥穂高岳から涸沢を回って横尾まで戻ったことを思い出した。

白状すると、さすがに今はもうそのころの体力はない。登りはまずまずたが、下りがダメだ。若い頃のように飛ぶように下れない(→弱音を吐くな)。仕方がないのでここは慎重に下るしかない。
 
話は飛躍するが、その筋では著名な西丸震哉さんは農林水産省食品研究所の研究室長だったそうだ。木崎湖の近くに記念館があるようだ。上司だった元学部長に伺えば面白い話が次々と出てきそうだが・・・






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ドブロブニクへの砲撃

2019-08-05 | 旅・趣味・自転車ほか
ドブロブニクはクロアチアの至宝、ローマ時代の城壁の街、世界遺産だ。先日に訪れたとき強烈な印象が残ったのは、ユーゴ内線のうちクロアチアとセルビアの戦争で、1991 年のユーゴ軍(この時点でセルビア軍とモンテネグロ軍)からの砲撃の痕跡だった。
 
ユーゴスラビア連邦は第2次世界大戦のあと、バルカンの火薬庫といわれた地域で、多民族国家として独立した国だった。ユーゴはチトー大統領が在命の時代は彼のカリスマ性で、連邦国家は維持されたと言っても過言ではない。しかしチトー大統領が1980年に死去した後は、ユーゴ連邦は求心力を失い、元々は民族と宗派が違い分裂主義により1991年のスロベニア独立に始まる?抗争と内戦を繰り返し、NATO軍と国連軍により2001年に終結したといわれるが、セルビアはコソボの独立を認めていない。
 
クロアチアがユーゴからの独立宣言は1991年6月25日、ユーゴのクロアチア、ザグレブ襲撃は1991 年9月から始まった。ユーゴ軍のドブロブニク砲撃は同10月から7か月間続いた。ドブロブニクの人々は何千発の砲撃を受けた記録を生々しく残している。
 
ユーゴはセルビア人、スロバニア人、クロアチア人、マケドニア人、イスラム人の5人種から構成されていた。ユーゴの内戦と独立戦争には人種と宗教が各地域で入り混じっていたことから、内戦による殺人のほか筆舌に尽くし難いほどの凄まじい弾圧と暴行や掠奪が行わた。
 
もともと混じり合わない人種が混在すると排他的になり、憎しみが爆発し想像できないほどの行為に及び、民族の救済を名目に攻撃が行われれ、また軍事的に弱くなると簡単に征服され、屈辱的な敗北となり、人間の尊厳を奪われ民族の消滅さえも有り得る。我々も中国や韓国の人々の過剰な受け入れを防ぎ、必要な武力を維持し集団的自衛力を持たないと取り返しがつかなくなることを肝に命じるべきである。
 
 
 
 
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サントリーニ島へ上陸

2019-07-23 | 旅・趣味・自転車ほか
ギリシャ エーゲ海の休日
崖の上に街があるのは、遠い昔から海賊が容易に攻めて来られないように、高い山の上に人々が住んだことに始まる。ギリシャやローマの時代から地中海は利権が交錯し海賊が出没してきた。



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世界の中心で、愛をさけぶ

2019-06-11 | 旅・趣味・自転車ほか
ケファロニア島にて ギリシャ
「残された者にできるのは、後かたづけだけだよ、朔太郎・・・」雨平写真館の重蔵ジイの言葉

2004年 あざみ野にいたころの時代の映画なのだ。

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ボルグとマッケンロー

2018-10-14 | 旅・趣味・自転車ほか

伝説の試合の映画が上映中だったのでさっそく鑑賞した。1980年ウインブルドンの決勝が行われたのが1980年7月6日(昭和55年)で、小生が企業から茨城県東海村の日本原子力研究所(原研)に出向したのが同年の7月1日付なので、ちょうど同時期だった。どうもこの決勝戦はテレビで見たような記憶がある。ボルグとマッケンローの凄まじいゲームだった。会社に入ってテニスを自己流で始めて面白くなったころだった。東海村に来て直ぐに原研テニス部に入った。

 現在、小生は何十年振りかでテニスを再開して数年になるが、肩を壊したままなのでスピードは格段に落ちている。思った通りに体が動かない。東海村でテニスをしていたころは若くて体力もあり怖いもの知らずで、思い切り振り抜いていた。小生がバックハンドをダブルにしたのはボルグの影響だったのだろう。

 もう随分昔のことなので実名を出すことをお許し願いたいが、気液二相流の解析で独自の見解を出していた原子炉安全の研究者の岡崎氏とダブルスのペアを組んだ。当時の東海村は原子力研究所、動力炉核燃料開発事業団(動燃事業団)、通信研究所などがありテニスのレベルが高かった。その東海村テニス大会で岡崎氏とのペアが決勝まで進んだ。当日は、こんなことはめったにないのだが小生はノーミスに近く、力の限り振り回したのがエースとなって決まった。もともと岡崎氏はプレースメントが良く堅実かつ強いショットを打ち、それに加えて前に出てボレーが上手で確実に決めるので、小生さえミスしなければいいところまで行けたのだと思う。最後は動燃のペアに敗れたが、岡崎氏のおかげで準優勝となった。これが小生の一生に一回きりの番狂わせの準優勝だった。

 1983年にカリフォルニアのサンタバーバラで学会があり発表した。いつまでも遊んでいられなくなった。そろそろ学位をまとめる必要があった。
An Experimental Study of Blowdown Thrust and Jet Forces by 6-inch Pipe under BWR LOCA, Yano T., Isozaki T., Ueda S., Miyazaki N., Kurihara R., Kato R. and Miyazono S., The Second International Topical Meeting on Nuclear Reactor Thermal-Hydraulics, Santa Barbara, California, U.S.A., January 11-14, 1983, Proceedings on Nuclear Thermal Hydraulics, Thermal-Hydraulics of Nuclear Reactors 2, 761-768, 1983.

発表終了後、ロスアラモスの研究所に立ち寄り、広島原爆の実物モデルを見てこれが原爆なのだと固唾を飲んだ。
カリフォルニアから帰国する直前にスタンフォード大学に立ち寄った。そこには大規模なテニスコートがあった。マッケンローは既に中退した後だった。ああこれがマッケンローの旅立ったテニスコートなのだと感動した。





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自転車で蔵王頂上付近へ

2018-10-03 | 旅・趣味・自転車ほか

先月下旬に蔵王エコーラインの最高点まで自転車で行った。急坂登りは苦手だが、山歩きのためのトレーニングを重ねてやっと登る気になった。

遠刈田温泉の大鳥居が標高400m、エコーラインの最高点が1600m、標高差1200mで距離は17km程度で、早い人は1時間で登るそうだ。ボクは途中数回休み食事して大休止をとっているので2時間40分ほどかかった。馬と鹿も休み休み行くと言います。本気で走っても世界記録の3倍の時間がかかりそうだ。

今さらトライアスロンに挑戦する気はないが、水泳は頑張れば100mを2分程度で泳ぐので、これは世界記録の2倍程度になりまだ水泳の方が脈がありそうだ。
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紅葉狩りの記-西穂奥穂の稜線まで

2018-09-29 | 旅・趣味・自転車ほか



さて、昨日はたった1日の晴天だった。山の天気は変わりやすい。どうも最近は晴天が長続きしない。秋雨前線が台風の進路次第で、毎日2日先の天候が読めず、丁半どちらに出るか分からない。

6月末に奥穂高岳に登って以来、ジャンダルムや西穂高にかけての稜線が気になって仕方がない。7月8月と抜けられない用や旅行があったりして9月も過ぎようとしている。そこで一念発起していつものようにソロで上高地に来た。

ジャンダルムから奥穂高岳へのルートは西穂高から稜線沿いに行くか、あるいは岳沢から天狗沢を詰めて天狗のコル経由で行くしかない。

そこで岳沢小屋に一泊した後、なんとか天狗のコルに到達し、やっと稜線登りができてワクワクしていた。しかし畳岩尾根ノ頭の直下に来たところ、初心者でも気がつく装備で信じられないミスに気がついた。そこで躊躇なく判断せざるを得なくなった。ジャンダルムから奥穂高を越えて穂高岳山荘に到着しても翌日は暴風雨の中を下るか、停滞するしかない。台風もこちらに向かっている。奥穂の小屋から涸沢まで足を伸ばしても、涸沢カールが紅葉最盛期で山小屋は超満員で宿泊できないかも知れないとのこと。残念!ここは撤退するしかない、後悔するかもしれないがこれも判断の時だと自分に言い聞かせて、登りはじめた稜線から天狗沢を引き返し、岳沢経由でトボトボと上高地まで下った。

岳沢小屋で出会ったソロの方は、若い頃から岩登りをしていたそうで、いやー、紅葉狩りに来ましたよ、じつは足の震えが止まらなくなり手術した後、少し歩けるようになったので、岳沢まで来た。天狗沢の途中の右側にある畳岩まで行って、少しフリークライムをしようかな、まだ両手が動くからね、行けるところまで行って紅葉でも楽しみますよ、と話された。ああ、こんな楽しみ方があるのだなとボクは感銘を受けた。
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