東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

12月9日(金)のつぶやきその2

2011-12-10 | Weblog
06:56 from web
RT @kamataks: @inosenaoki 今日の話ではないのですが
満ソ国境にてソビエト軍と対峙 17か18日に士官が来て戦闘中止 そのまま5年の抑留 私が中学生の頃飲んで気分の良い時によく話してくれました。大正9年生れの親父 です17年前に逝去しました
06:57 from web
RT @denseinc: @inosenaoki 小学生の時、担任の先生に今日が自分の誕生日以外の重要な日だと初めて教わりました。今年の終戦記念日に真珠湾戦争博物館に行きました。日本軍の攻撃については詳しく説明がありましたが、原爆や終戦については軽い説明のみ。日米両国で ...
06:57 from web
RT @yamai888: @inosenaoki 祖父は中国で軍人として終戦を迎え、その後、シベリアに抑留されていました。祖父の腕に残る銃創が子供の自分にとっても、戦争の生々しさを感じさせました。あまり戦時中のことは語ろうとはしない祖父でしたが、語るもおぞましい事が多々 ...
07:37 from web
RT @realwavebaba: 除染なんてできないし、無理にやればカネを使って処分できない残土を積み上げるだけ。放射能の危険性の認識の合意は難しが、これくらは合意できそうに思える。しかし除染しろの要求がなくなることはない。誰かお母さんたちに除染は無理だし、無駄だと説明 ...
07:37 from web
RT @kotarotamura: 私が政界に入った小泉政権末期・安倍政権初期は本当に楽しかった。オープン・グローバルで当時の駆け出しの起業家たち(今のそうそうたる成功者たち)とウマが合った。皆同じ絵を見ていた。今の政治家が見ている絵とグローバルに活路を見出す起業家の見る ...
07:38 from web
RT @yokoishikura: 三田キャンパスでの福澤文明塾が終わりました。ブログにも少し書いているので、フィードされることを期待しつつ。朝早くから、根を詰めてやっていたので、さすがにちょっと疲れました。明日は戦略。。。のクラスとプロジェクトのミーティングです。
07:38 from web
RT @kotarotamura: 連日、政治家と起業家に会うが、概してだいぶ差がついてしまった。社会に価値を生み出す能力だ。丸ドメでクリエイティブなことを一切やらせてもらえない環境で悶々と冠婚葬祭に精を出す政治家。厳しい環境を逆手にとって変革力で世界に飛び出し勝負する起 ...
22:07 from web
RT @sawaakihiro: 中印への圧力。“@CHedegaardEU: LDCs, AOSIS and the EU united in the desire for an ambitious outcome in Durban. Joint statement ...
22:08 from web
RT @realwavebaba: 私をブロックしている孫崎享氏の日米安保論は傾聴すべきものがあった。ところが原発事故以来、筋金入りの反原発派と同調するような論調が多くなり、冷静な戦略家の冴えがなくなってきた。その孫崎氏のTwitterのフォロワーは3万人以上。そして唯一 ...
by toshikazuyano on Twitter
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12月9日(金)のつぶやき

2011-12-10 | Weblog
05:55 from web
RT @sawaakihiro: Durban climate talks see US back EU proposal http://t.co/7GLVupkB via @guardian
05:57 from web
RT @katukawa: 濃度と量の問題ですな。あと、「影響は軽微」で片付けずに、第三者を入れた継続モニタリングが必要。 RT @the_kawagucci: 浄化した後なら問題なかろうが,遠洋深海に運ぶ方がより良い。 RT @katukawa: 「福島第一原発「汚染水 ...
05:58 from web
RT @akiraimai: 「バス停留所」1956年。あきれるほどのB級映画にマリリン・モンローが出ている。晩年だ。34歳だが、二年後に死ぬ。容色の衰えは隠せないが、世界のモンローはこんな映画しか選べなかったのだろうか。
05:59 from web
RT @MAKIO_K: お気に入りボタンって登録したら、そのツイートをずっと保存できるってことなのかしら。猪瀬直樹氏の呼びかけに応じて、祖母との(正しい呼称なんだろう)大東亜戦争についてのエピソードがお気に入りに登録されたと通知が届く。祖母は一貫して大東亜戦争という。太 ...
06:02 from web
RT @takiyama2011: @inosenaoki 祖父母は北方領土にいました。ロシア軍が攻めてきた話、根室の空爆の話、死ぬ数ヶ月前に「今まで話す気になれなかった」と言いながら語ってくれました。もうちょっと詳しく聞きたかった。
06:03 from web
RT @iwakimichiko: @inosenaoki 船乗りだった父が戦争へかり出され、フィリピンへ出征。乗った船が爆撃され数ヶ月フィリピンに滞在し、その後は引き揚げ船へ乗ることなく、無事に日本へ戻れたそうです。もの凄く多くの船が爆撃されたのを見たときは自分ももう終 ...
06:04 from web
RT @hamahide3144: @inosenaoki 戦時中、電力会社に勤務していた祖父。終戦は満州。双子の母は両親とは別々に日本へ。残留孤児という言葉。祖父は1歳で他界、自分にとっては「本を読みなさい」と優しいだけの祖母。戦時中の話を初めて聞いたのは、祖母の納骨の日。
06:04 from web
RT @hiyokofx: @inosenaoki 祖母がよく話してくれます。ビルマに行ってたことを。爆撃を受けて周りの人がバタバタ倒れていく中で、走って逃げつつも自分の荷物をしっかり持って離さなかった事。そんな中盲腸になり手術したこと。11人いた男兄弟の殆どを戦争で失っ ...
06:04 from web
RT @hanamarue: @inosenaoki 父方の祖父は、「中国に行ったとき、現地の人には本当によくしてもらった。でも、ある日、朝起きたら、全員殺せと命令された」とだけ。「上野で天皇陛下が通られるって言うので、地面に頭を擦りつけて待った。戦争が終わったら、テレビ ...
06:05 from web
RT @pikonyan: @inosenaoki 祖母は満鉄職員の祖父と結婚し対米開戦後に大連へ。終戦間際にソ連兵暴虐多発、武装解除前後の混乱、幼児連れ婦人への「殺せ」圧力、邦人を救った二十歳そこそこの下士官(自らは犠牲になったらしい)の話などを聞いて育ちました。引き揚 ...
06:05 from web
RT @mowjapan: 猪瀬直樹さん @inosenaoki 親祖父母に聞いた戦争体験がたくさん寄せられてる。一般論になった歴史じゃない個人の体験。私の祖父はルソン島ボゴト付近で亡くなったようだけど、詳しい様子は全然わからなかった。フィリピンの前に配属された中国からの ...
06:06 from web
RT @fr05226n: @inosenaoki 私の祖父は満州にいました。詳しい話は未だに聞いたことがありません。そんな祖父も89歳。最近体壊す事が多いです。私の思いとしては話を聞いて次の世代に伝えたいです。でももしかしたら祖父は話したくないのかなと...何がベストか ...
06:06 from web
RT @KomaTamaSent: @inosenaoki 7年前に他界した祖父ですが、中国に出兵したことがあります。後年「水餃子が食べたい」と言って母が作ると「違う!満州で食べさせてもらったのはもっと美味しかった」と漏らしたそうです。戦争時代の自慢はたくさんしてくれまし ...
06:06 from web
RT @inosenaoki: 参謀本部ですね。RT @karenmomo23 @inosenaoki 母は参謀省でタイピストとして働いていたそうですが、毎日憲兵から見張られていたと言っていました。
06:07 from web
RT @yuzurihamegumu: @inosenaoki 東京大空襲の時、真鶴に疎開していた父は、東京が赤くなっているのを見たとか。また爆撃の中、祖母(私の曾祖母)に「当たりゃせん」と言われ畑仕事をしたそうです。今でも「どこそこの親戚は食べ物を持ちきれないくらい分け ...
06:52 from web
RT @uny747: @inosenaoki 開戦当時退役軍人だった私の祖父(戦時中に病死)は真珠湾攻撃の報があった時に、まだ幼かった伯父達の前で「日本は負ける。負けた後どうするかが大事だ」というようなことを言っていたそうです。海の外を知っている人達には勝目のない戦に見 ...
06:52 from web
RT @ama_jaya: @yamadamuneki @inosenaoki

祖父の弟が健在ですが、祖父が19歳の時始めて招集され台灣蛮族征伐戦に参加したそうです。この戦が終わり復員した祖父は人が変わってしまったと話していました。とても優しかった兄の面影はなかったそうです。
06:52 from web
RT @Tomoya_Jinguuji: @inosenaoki 支那大陸で機甲師団所属だった祖父。負傷し後方に送られ野戦病院で終戦の報を受く。輸送船に乗せられ内地に送り返される時に意見具申するも、上官より「荷物は喋るな」と一喝され生還。その上官はシベリア抑留中に死去。亡 ...
06:52 from web
RT @ggbb_2011: 小学生の時の校長先生の話が忘れられない。一緒に小便に行った友達の体を、焼夷弾が突き抜けた。あ、やられたとしか感じなかったと。 @inosenaoki
06:53 from web
RT @notravelnolife: 関東大震災で被災し、海軍でトラック島に行った祖父は311に急変して翌週静かに息を引き取った。誕生日の翌日だった。痴呆になっても自宅介護中、深夜に上官への報告をし出したり、軍歌を歌っていた。戦争のインパクトは想像出来ない強烈なものなん ...
06:53 from web
RT @pantukaese: @inosenaoki 片腕を戦争で失った沖縄のおじいさんの話。彼は見張役でした。敵の弾が飛び交う中、天皇陛下から預かった望遠鏡を必死で守ったそうです。彼の言葉「私の命の重さよりも、望遠鏡の方が重かった」が、戦争を知らない私には衝撃でした。
06:53 from web
RT @kawada16: @inosenaoki 私がハワイに行った時、日系の女性ガイドが私達に、「真珠湾攻撃の時、私の父は、遠く離れた母国日本から日の丸を付けた戦闘機が頭上を飛んで行った時は、何度も頬を叩き我が目を疑った。と、自慢げに私にいつも話していました。」小さな ...
06:54 from web
RT @samuraidah: @inosenaoki 満州で生まれた父は終戦のとき三歳。自分の名前と引揚げ先を必死に覚え、何とか帰ってくることができました。父は中国残留孤児のニュースを欠かさず見ていました。紙一重だったという思いがあったようです。祖母の話では使用人だった ...
06:55 from web
RT @buchi_mabo: @inosenaoki 昭和19年、当時7歳だった父が、誤ってナタで人差し指の先を切り落としてしまった時、彼の祖母は「孫が戦争に行けなくなったー」と泣いたそうです。戦局が悪化していたこの時期で、この感覚。70年前の戦争は、日本人全員が「責任 ...
06:56 from web
RT @makimur: @inosenaoki 祖父は軍医でした。七三一部隊にいたようです。戦中、銃撃を受けましたが、体内に弾丸が留まり、九死に一生を得ました。戦後も医師として働き続けましたが、戦争のことは子どもたちに一切語りませんでした。1996年に亡くなり、火葬後、 ...
by toshikazuyano on Twitter
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