小栗上野介忠順は幕府の重臣であり、1860年に日米修好通商条約の批准のために米国に上陸している。小栗は横須賀製鉄所(横須賀造船所)を建設するなど、早くから近代化に着手した。この製鉄所を建設したのは幕府側だ。フランスの協力を得て急ピッチで建設された。この造船所建設など後の重工業振興や近代化の路線を小栗らによる幕府側が緊急に着手したことが、欧米列強による日本の支配や分断を免れる遠因の一つになった。
横須賀製鉄所の建設現場からナウマン象の化石が発見されたのは1867年、明治維新の1年前。
小栗上野介忠順は明治改元の直前1868年慶応4年閏4月6日に新政府軍によって斬首されている。明治元年は同年1868年閏9月8日(10月23日)以降となる。
その後、明治新政府になって富国強兵の近代化路線を邁進し、横須賀一帯は軍港として、軍艦の造船所として栄えた。
日本海海戦でロシア軍のバルチック艦隊を撃破したのは1905年(明治38年)、明治維新からたった37年しか経過していない。後に 、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が小栗上野介の子孫を自宅に招き「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べ、仁義禮智信としたためた書を子孫の小栗又一に贈ったというエピソードが残っている。(Wikipedia)