徳川家康ルート2
前回からの続き
浜松城から関ヶ原まで
三方原古戦場跡
1573年(元亀4年)現在の静岡県浜松市中央区三方原町
織田信長徳川家康の連合軍が武田信玄と戦い、徳川家康が敗北して浜松城に逃げ帰った
この敗走を生涯の戒めとして、その後の合戦に臨んだという
三方原古戦場碑
三方原から長篠設楽原に向かう途中に井伊家発祥地の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ 臨済宗妙心寺派)があった
静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷
龍潭寺
龍潭寺
井伊直政は徳川四天王の1人で井伊家24代
徳川家康の家来として奮戦し、井伊直政は武田の赤備えを配下にした
子孫に井伊家36代彦根藩の井伊直弼がいる
幕末の安政の大獄の中心となった
長篠設楽原の戦い
1575年(天正3年)織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000が戦った。
織田軍の鉄砲三段撃ちが有名
長篠設楽原の戦い
織田は3万人 徳川は8000人
岡崎城
徳川家康はここで誕生した
岡崎城から徳川家発祥の地、豊田市松平郷までは約20km、車で30分ほど
松平東照宮
愛知県豊田市松平町赤原
松平家系図
徳川家康の祖先は時宗の僧 徳阿弥で関東から流れてきて入り婿となった
徳阿弥が上州の新田氏の系統にある
これで群馬県太田市の世良田東照宮の新田氏と愛知県豊田市松平町の松平東照宮がやっと繋がった
大高城趾
大高城趾
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの直前、今川義元の配下にあった若き日の徳川家康が「兵糧入れ」を行った
同年直後、弱小の織田信長が大軍の今川義元を桶狭間で急襲して討ち取り、天下の趨勢が大きく変わった
27歳織田信長4000人、今川義元2万5千人
大高城と桶狭間の距離は5.5km、車で約15分
大高城趾
桶狭間の織田信長
1560年 桶狭間の戦い
小牧山城趾
現在の小牧市役所の前にある
1584年(天正12年) 小牧長久手の戦い
織田信長の次男織田信雄と組んだ徳川家康が豊臣秀吉と戦い、家康が遊撃戦を仕掛け勝利した
その後、織田信雄が秀吉と和睦したため、結局、徳川家康は秀吉の配下となった
その後1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い、1614年(慶長19年)大坂冬の陣、1615年(元和元年) 大阪夏の陣へとつながる
徳川家康 関ヶ原最終陣地
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い
徳川家康と石田三成の陣
関ヶ原 笹尾山 石田三成の陣